大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

方言量

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私:方言の話は好きだよね。
妻:長年、夫婦をやっていると似てくるわよ。
私:有難う。方言好きなんだ。なら話しやすい。方言量・ほうげんりょう、って知ってるかい。
妻:そういう難しい話がすきなお方はすくないわね。
私:ははは、ごめんね。そう難しい話じゃないから。言葉のイメージの訓練だ、どんな意味だと思う?
妻:・・方言の量でしょ。ど田舎の言葉は方言が多くて方言量が多い。都会の言葉は洗練されてて方言量ゼロ。
私:ははは、だいたいあってるね。方言なんて田舎の言葉だ。僕はねえ、飛騨の大西村っていうとんでもなくド田舎の出身だ。でも、そんなド田舎でも方言量は実はたったの1。すくないだろ。これは実は伏線、今日はそんなお話だ。
妻:1でも2でもイントロが少し長すぎるわよ。
私:いや、すまない。本題。度忘れで申し訳ないが、柳田國男という戦前の学者の言葉だったかな、ひとつの言葉に対して全国、つまり、日本語をことごとく眺めてみて、・・(方言が当然含まれるよね)・・、同じ意味の言葉が幾つあるか、この概念が方言量だ。柳田國男先生はかたつむり、の言い方が全国各地でばらばらなのにビックリした。その前に、柳田さんは東京帝大を出たお役人、お役人の柳田さんは全国各地を転勤なさって、この事にピピーンときてしまった。お役人をやめて学者になる事を決意された。上り詰めて東京帝大の教授さ。僕とは違うよネエ。方言量などという概念もすぐに考え付かれただろうね。そして蝸牛考という論文を出された。
妻:あなた、ひとりで熱くなっていない?
私:かもね。でもレスポンスがあると話しやすい。
妻:眠くなってきたわ。
私:じゃあ手短に。つまりは、方言量はひとつの単語に対して全国の方言でいくつおなじ概念があるか、という意味だ。「やま山」の方言量はいくつかな。
妻:山って、北海道から沖縄まで、おそらく同じ。方言量は1よね。
私:当たりまえだな。山なんて単語を知らなきゃ日本人じゃないぞ。ついでだか、川だって、つまりは、川・カワの方言量も1だ。そこで質問、トウモロコシの方言量って幾つだい?
妻:私ならコーンというわ。
私:あなたねぇ、ポップコーン、って外来語だろ。しかも、あれってとっても脂っこいだろ。脂ぺたぺた。絶対に健康によくない。けど、アメリカ人が好きなんだ。ポップコーンをポリポり、DVDをクリック、ホンと誰も映画館いかなくなったなあ。
妻:だからコーンの方言量は?
私:いや、すまん。方言量+トウモロコシ、でネット検索してごらん。
妻:でも、外来語・コーン、って方言じゃないわよ。
私:君はホンとにするどいな。でもね、外来語でも広義じゃ方言だぞ。方言量ブラス1だ。でも、トウモロコシの方言量ってなんと二百近いだろうね。飛騨なんてひとつの地域でも、となわ、とうなわ、とうな、これで方言量3だ。でもおなじ野菜でもキュウリやナスビはぐんと少ないぞ。これこそ、今日のテーマだ。ただし蝸牛考だけでは部分点だ。
妻:たった一個の言葉でも方言量を考えると、あれこれわかってきて面白いという事ね。
私:その通り。
妻:話のはじめにトウモロコシの方言量が1と言ったのはどういう事?本当は全国で200なんでしょ?
私:では結論だ。実は僕にとっては「とうな」のみ。僕には方言量は1さ。つまりは全国的には方言量は二百近くても、ひとりひとりにとっては方言量はたぶん1だよ。ところが飛騨の地域での方言量は3。柳田先生の定義を敷衍すれば地域にも方言量があるね。飛騨は広いね。なんでも、高山市という平成に突然出来てしまった高山市、などという日本一広い市は、一つの市の中でも方言量の研究も大変だ。たったひとつ言える事は、全国的に幾つの言葉があっても村の人々が話す体言はたった一つ、つまり方言量は1という事だね。
妻:じゃないと打ち解けてお話できないわね。

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