東京界隈には江戸街道と称される道が多いのでしょうね。
全ての道はローマに通ずるが如し、江戸時代の主だった街道は
江戸街道。実は飛騨にもその昔は鎌倉街道と言われた江戸街道があるのです。
東京から少しばかり離れた飛騨のような片田舎では
江戸街道という言葉が何とも早、いなせというわけです。
所詮は何の変哲も無い生活道路なのですが、田舎のたんぼ道を江戸街道というのは
飛騨の人間の片思いという事なのでしょう。
さて飛騨の地勢をあまりご存じない方のために少しばかり
やさしい説明に終止します。
飛騨の中心・高山から歩いてどうやって江戸にたどり着くか
という事ですが、飛騨川をくだり東海道を歩くわけでは
ありません。要は如何に最短距離で中仙道にたどり着くかという
事で、これが飛騨における江戸街道なのです。
別名は江戸時代は富山湾でとれたブリを塩漬けとして
信州松本まで運んだブリ街道です。あるいは
明治になり飛騨の若い娘衆が糸引きの工女として
信州諏訪の間を行き来した道です。
一言でいいますと飛騨の江戸街道とは野麦峠越えです。
読者の大半がインターネットの申し子でしょう。
まず検索したくなるのがヤフー、グーグル等の
地図コンテンツではないでしょうか。
木曽街道となっている情報も多いと思います。
あたらずといえども遠からずです。
さてこの数十年の故郷の変貌を見ても、かつての
江戸街道は既になくなってしまいました。
一番の理由は鈴蘭国体です。御岳の麓・鈴蘭スキー
場で冬季国体があったのですが、県が大型バスが
すれ違えるように山肌を削って道路幅を拡張し、
巨大トンネルを掘り、山峡に橋をかけてかつての徒歩路
をハイウェイにしてくださったおかげです。
(梶原前知事よ、ありがとう。)
もうひとつは古い話になるのですが、
戦後の復興期に電力需要が逼迫し、中部電力が
飛騨川上流に五つもの水力発電ダムを建設(久々野、朝日、秋神、高根第一、高根第二)、そのひとつの
秋神(あきがみ)ダム建設によりかつての街道の
相当部分が湖底となっています。
また更には江戸街道の一部は交通が途絶えて実は既に廃路、草が生い茂り
ちぎれてしまっているのですが、先人の、
あるいはせめて明治の糸引き工女の衆と気持ちを
おなじゅうして江戸街道を探ってみましょう。
朝に高山を出発してまずは江名子に向かいます。
山口町森下より水呑洞あたりは江戸街道保存会
記事という事で高山市のお墨付きですね。
旧道を歩き美女峠を目指します。峠の分水嶺を超え太平洋側です。
眼下は朝日村甲(かぶと)です。左手を見やれば秀峰乗鞍岳です。
小一時間ほど峠道を下り、お昼時でしょう、江戸時代のお役人は甲(かぶと)で
昼ごはんでした。
ついで日没までに秋神(あきがみ)村まで歩くのです。
甲(かぶと)を過ぎてすぐ左手は高根、右手は秋神、と
谷が分かれますが、江戸街道は秋神方向です。
数キロ歩くと上記の秋神ダムです。
黍生谷(きゅうべだに)の深山渓谷ですが、ダム湖畔をひたすら
ダムの起点まで歩きましょう。道は舗装されており水没した旧江戸街道よりは
歩きやすいはずです。
ダム湖に注ぐ秋神川の畔に名前が同じく黍生谷という村があります。
本日の宿です。がしかし旅籠ではありません。
馴染みの家に一泊させていただくのです。
江戸時代のお役人さんは庄屋さんの家に泊めてもらえたのでしょう。
軒先を借りるだけならただですね。
翌朝は、銭を払いすぐ出発、今はすでに廃路と
なった道、市蔵道に向かいます。村の左手の小さな沢です。
江戸時代に高山一之町の市蔵が一年余をかけて難所を改修、
なんとか牛が歩けるようにした道ですが、いまは獣道です。
数キロ歩くとほどなく高根町中之宿に着きます。
のんびりと二日かけてここまで歩く人もいたという事でしょうね。
あとはヤフー・グーグルの地図情報とほぼ同じです。
しばらく歩くと二股です。
まっすぐ行けば公道の木曽街道で長峰峠を越えて中仙道木曽福島関所に至ります。
左手の山道が野麦街道、野麦峠の向こうは松本・塩尻です。
その日のうちに野麦峠を目指すのです。
木曽福島関所へ向かうと道は良いが江戸に行くにはやや遠回りです。
野麦峠にはお助け宿がかつてはありました。
旅籠ではありません。でもなんとか食事にはありつける、野宿はしなくてよいというわけです。
あるいは月夜の明かりを頼りに更には夜通し歩いて夜の白む頃に
松本に着いた剛の者もいたのかも知れません。
そして中仙道とあいなり正真正銘の江戸街道となるのが
明治の時代に糸引き工女さん達が飛騨と諏訪湖の
紡績工場の間を行き来した江戸街道なのでした。
総括ですが、街道を歩いたのは江戸時代の天領の役人、
善光寺参りの農民、ブリをかついだ歩架(ぼっか、運び屋)さん、
明治になって糸引き工女の乙女集団、です。
関所は無かったが運んだ物は推して知るべし、
牛も歩けぬような悪路、踏み分け道。
そして運んだ言葉などあるべくもない、皆、
汗を拭きただ黙々と歩き続けた。
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