大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
人形さひちと飛騨のさしち・江戸時代の数字考 |
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私事で申し訳ないのですが、なにとぞご容赦を。実は佐七というのは私の生家の屋号です。自称サシチです。私にとっては何よりも大切な飛騨方言という事なのですが、村の屋号は実はまた数字のオンパレードなのです。理由は書かずもがな、貧乏人の子沢山。 (元へ)どれだけでもためになる話という事で(でもないかな)、文献・辞書・成書を元に議論を進めましょう。古語辞典を見ますと七を表す言葉として、なな〜、しち〜、などのオンパレードです。(本屋さんで長く@@読みしないでね。その本が気に入ったら必ずレジに並んでください。)また日葡辞書をみてみましょう、Nanacusa ななくさ、nanatsu ななつ、Xichi しち、 Xichigatsu しち月、Xichigei しちげい、Xichigen しちげん七賢。Xichigosan しちごさん、というのもありました(以下割愛)。七五三(しちごさん)って実は安土桃山時代の数字三個の勉強どころか、今も昔もの慣わしが瞬時にわかりますね。 ところが話がやっかいなのは、江戸言葉です。江戸で刊行された音曲玉淵集では、四・七、をヒ(ひ)のように言うことを戒めています(山口明穂他、日本語の歴史、東大出版会)。 つまりは江戸っ子ベランメエ調(=江戸時代の下町弁)は、ついつい人形サシチが人形サヒチになっていたという事なのですよね。 それでも実のところは、例えここまで議論が進んだとしても話は単純、という事なのでしょうか、つまりは江戸はヒチ、江戸時代の難波弁はシチ。明治になり、実はシチが共通語として採択され、あわれヒチは江戸時代の化石言葉になりはてたようだと。ふふふ。まだまだ議論は続きます。 実はここに突然に出てくる文献が式亭三馬・浮世風呂です。 そりゃそりゃ。上方もわるいわるい。ヒカリ人っさ。光るとは稲妻かへ。おつだネエ。江戸では叱る(シカル)といふのさ。アイそんな片言は申しません。江戸の女が、京女に言葉遣いが下卑ていると 揶揄されて反駁した云いです。 しかる(叱る)と言う事を京都ではヒカルっておっしゃるの、ホホホ、稲妻みたいね、江戸じゃあシカルっていうのよ、京言葉こそ田舎言葉みたい、ホホホ。とでも現代語口語訳すればいいのですよね。もうこうなってくると完全にわけが分からない。 振り出しに戻りますが、佐七のじいさん(明治生まれ)が確かにサシチと言っていたのです。そして日葡辞書が Xichigosan しちごさん なので安土桃山時代から私の屋号はサシチであった可能性が高いと考えますが、以下はまとめに。 まとめ 江戸時代に(大西)佐七は一時、サヒチであったのかも、なにせ飛騨は天領ですから。というのは冗談。江戸時代は実は厳しい関所政策の時代です。和文献を見る限り江戸の言葉が飛騨に伝わった可能性は、一部の言葉を除いて、実はゼロに近かったのです。("動く陽明門"のような世俗な言葉こそまさにその通り、明治以降の言葉でしょう。あれこれ調べました暇な私。)飛騨の佐七が近世以前に(ひだの)サヒチと呼ばれた可能性は有り得ません。日葡辞書を読む限りは安土桃山時代からおそらくは我が家はサシチだったのでしょう。 さて明治になり、時の政府があわてふためき、日本諸国の方言を禁止、欧米列強に比肩すべく日本語という international standard を考え出した道筋は、請う次回。 |
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