中世以降の飛騨の歴史を高山市にスポットを当てて簡単に書き出しますと、
▼保延、永治(1135〜1142)平時輔朝臣が三福寺町に在城。
3代日の景則から飛騨は平家の領国。
▼治承5年(1181)木曽義仲が飛騨平家を滅ぼす。
▼1183年源氏が木曽義仲を滅ぼす。
▼文安年中(1444〜)多賀徳言が現在の城山を築く。
▼永正年間(1504〜)高山外記(げき)が現在の城山を築く。
▼戦国時代は益田郡の三木(みつき)氏が高山外記を滅し、松倉城を築城。
▼天正14年(1586)、金森長近、関ケ原では徳川方、が初代高山藩主となり入府。
元禄5年(1692)6代目頼時は突然に出羽国に転封され、金森政治は終わる。
▼元禄以降明治まで、幕府直轄地(天領)
一言でいいますと、コロコロと為政者が変わったという事ですね。
他所の国から多くの家臣を従え、突然やってきて城を築き、高山という町をつくり
それでも暫くすると滅ぼされ、その子孫は絶え、次の為政者もまた滅ぼされ、子孫は絶え、
こんな状況で民族の移動によって飛騨方言が成立したとは
筆者には到底信じられません。
実は飛騨方言の成立に関係したのはぐるりと高山の町を囲んでいた
大多数の人口・無垢の民百姓だったのでしょう。
村人同士では話はするが、大原騒動以外は為政者にはものを言わなかったのかも。
さて日本の方言研究史を紐解きますと、江戸時代の
移封により唐津方言、延岡方言などが成立した事実に筆者は大変に興味が沸きます。
地理的に狭く、善政が続けばさもありなん。
その点、飛騨は広すぎます。
日本一の面積、東京都以上の広さの高山市。
また残念ながら高山の町は上記の高山市の歴史の如く、
善政はむしろありませんでした。
かなりの人の入れ替わりがあった事も考えられます。
つまりは小京都・高山は断じて飛騨の言語島
(突然に為政者となった者が他所の国の言葉を持ち込みついにはご当地弁に
なった特定地)ではありません。
実は高山も含め、飛騨一円でただ唯一の言語・飛騨方言が話されているのです。
おそらくそのまた昔も。以下はまとめに。
まとめ
江戸時代前後に飛騨の国を平定した金森長近という武将がいました。
この人物は実は生涯に何度も仕える主人をコロコロと変えて、
諸国を渡り歩いた本当にいやな奴です。
彼は佐七に勿論言うでしょう、乱世に当たり前の人生を歩んだのだと。
その通りですね、ご苦労様。
言い換えましょう、つまりは彼には故郷がありません。
飛騨に来る前は一時、福井にいたそうな。
つまりは故郷を持たない、生涯を戦いに明け暮れた人間がある地方の言葉を飛騨にもたらして、
高山市に言語島を作り、それがあるいは若しや現在の飛騨方言になった事など有り得ません。
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