大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

江戸時代の階級方言に関する一考察

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題名は仰々しいのですが別に難しい事ではありません。さてサイト管理者としていつも考えておりますのはネット記事というのは不特定多数に話す内容である、それは飛騨方言をご存知ない方かも知れないし、高校の古文をご存知ない方かもしれない、という事で今日はすこしかみくだいたお話です。

飛騨方言でくやしい、チョーむかつく、という事を、はんちくたい、と言います。何処の地方でも話されていない飛騨地方独特の言い方だそうで。また、苦しい・つらい・もうだめだ、という意味で、てきない、と言います。これも飛騨方言に特有、ただしこちらは北陸地方でも話されているそうですが。そして語源ですが、フームこれが問題、はんちくたい、はなまはんじゃく。そして、てきない、は、大儀ナリ。生半尺な事、要は中途半端な事がどうにもこうにもシャクにさわる、と言う事でなまはんじゃくたい、が、はんじゃくたい、になり、遂には、はんちくたい、になったようです。また、大儀な事、がいつのまにやら、てきない事、と発音されるようになり、てきない、という形容詞ができたようなのです。 証拠は何もありません、江戸時代の洒落本や滑稽本などを調べるとどう考えてみても江戸時代に発明された飛騨方言ではないのかしら、と佐七がかってに思っているだけの事です。

問題は、江戸言葉・なまはんじゃく、たいぎなり、これが何故、飛騨にはるばるやって来たのか、その事のほうが大問題じゃないでしょうか。飛騨は江戸時代は天領でした。お代官様という、それはもうえらい方と彼の家来・つまりお侍さん、が高山の町にいました。毎月のごとく高山と江戸を行き来していました。書類を書くのがお役人さんのお仕事です。野麦峠を越えて奈川・川浦の宿があり、皆そこに一泊しました。記録が残っています。また江戸時代に庶民は飛騨・江戸間を自由に行き来していません。ところが、はんちくてえ・てきねえ、共に彼ら武士は実は絶対に使わない言葉、つまり庶民の言葉です。この点が問題なのです。

つまりは、お付の召使も時々は人の入れ替わりがあり、お役人らとともに江戸から飛騨入りしているのではないでしょうか。こうやって江戸の庶民言葉・はんちくてえ、てきねえ、が飛騨に入った可能性はあります。そして江戸時代は厳しい身分制度の時代、士農工商といいますが、武士の言葉とその他大勢の言葉といってもいいでしょう、百姓が武士の言葉を使って武士にはむかったら途端に切り捨てご免です。がしかし飛騨の民が武士の召使の言葉・はんちくてえ、てきねえ、を使っても別に問題にはなりません。

つまりは江戸から武士の召使(中間・小物)が高山にこの言葉をもたらし、そしてまたたく間に飛騨全体に広まり、現代に至った可能性はなきにしもあらず。がしかし少しばかり荒唐無稽なので(あまりのこじつけにてきない)佐七が突然に心が変わり明日にはこの記事も突然にアクセスできなくなっている可能性もなきにしもあらず。そしてアクセスできないあなたは、佐七ってなんて奴!、とはんちくたがる。
結論
誰が飛騨に運んだか、江戸の庶民の言葉・はんちくてえ、てきねえ。実は天領飛騨と江戸の間を美女峠・朝日・高根・野麦峠経由で書状を携え頻繁に行き来していた武士役人が運んだ可能性もある。( また出張だ、はんちくてえ。野麦越えはてきねえし。)( 街道ですれちがう飛騨の農民が、お役目ご苦労でござる。道中気をつけなされい。 )

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