縄文時代の飛騨方言が如何なるものであったのかは日本人の
誰も知る由もありません。
がしかし当時の飛騨のお猿さんは現在の飛騨のお猿さんと同じ
サルなりの飛騨方言を話していたのでしょう。
つまりはサルのことですから所詮はキャッキャッというだけだったのでしょう。
飛騨の縄文人はどうでしょうか。ただウーウー、アーアーだけ言って
共同で狩猟生活していたわけではなさそうだという事は
誰にでも想像がつきましょう。
意外と現代語に近い文法であった事が想像できます。
でないと共同生活が出来ません。
実は太古の日本語のルーツはウラル・アルタイ語とも南方ポリネシア語とも
言われています。太古の日本列島は大陸と地続きで無人であった。
そこへテクテクと大陸から歩いてきたり、船に乗って南方から来て
縄文飛騨人となったのですから、実に当たり前の事です。
そして飛騨全体に縄文遺跡が分布しています。
飛騨ではおおいに縄文文化が栄えたのです。
現代の私たち飛騨人は田舎人なれど、
我々の祖先・飛騨縄文人は当時は関東平野が
まだ無人の漠たる未開の荒野であった頃に飛騨で文明を
築いていたのかも知れません。飛騨方言は実は東京語より
古いのかもしれないという事は筆者にとっては痛快そのものです。
また縄文時代はナナッ何と、現在よりも三〜四度気温が高かったらしいのです。
今、地球温暖化が叫ばれており飛騨でもそれほど雪が降らなくなっていますが、
つまりは縄文時代の冬の厳しさといっても大した事はなく、
実は雪は降らなかった。
賢明な読者は既にお気づきですね。
縄文期飛騨方言には、ゆきまたじ(=雪かき)という言葉は
おそらくなかったのでしょう、ふふふ。
稲作にまつわる単語も一切ありませんでした。
ひょっとしたら、いしな、という単語は悪餓鬼の言葉として
あったのかも知れませんね。
そのような原始日本語・原始飛騨方言の
ひとつひとつの単語の吟味は別として、金田一京助著・
日本語の変遷、講談社学術文庫によれば、
大陸ないし南方から日本(飛騨)にやってきた以上は
文法の骨格がおおよそ以下のようなものであったであろう
と紹介されています。
- 主語が先で述語があと、つまり 花さく、鳥なく、等々
- 動詞とその目的語・補語の関係は動詞を後におく、つまり
花見、月見、山ゆかば、等々
- 修飾する語を先に置き、修飾される語を後に置く、
つまり 高い山、 大きい川、等々
- 助詞は体言の下へ下へ添って、場合により二重三重に
添う、つまり 花さえ、花こそ、花こそは、花をこそは
- 助動詞は体言の下へ下へ添って、場合により二重三重に
添う、つまり しろす、しろしめす、しろしめけむ
更に別の情報ですが、
- 沢という単語があったらしい。
となれば山という単語も
あったらしい。
ネット記事・日本列島における地形用語としての谷と沢の分布
をご参考までに。
- 毛(け)という言葉があったらしい。また木(き)という言葉も
あったらしい。木(き)とは実は大地から生える毛(け)という意味で、
木(き)という言葉から毛(け)という言葉が生まれたらしい(大野晋、日本語の起源・新版、岩波新書)。
更には、私の推察ですが、縄文期飛騨方言は
- 火(ひ)、及びそれに関係した単語は既にあったのでしょう。
- 現在のものに近い人称代名詞は存在していたのでしょう。
- 現在のものに近い多くの動詞が存在したのでしょう。 見る、切る、叩く、走る、等々
- 現在のものに近い多くの形容詞が存在したのでしょう。 大きい、小さい、明るい、うまい、等々
- 笑うときは、パパパ(ハ行転呼前の原始日本語)だったのかも
きりがありません。しゃみしゃっきり。
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