飛騨には縄文文化も弥生文化も花咲いていますので、飛騨に原始日本語があった事は疑うべくもありません。さて東大寺の古文書に飛騨工が造営に携わった記述があり、これをもって飛騨方言の夜明けとしますが、訛りがひどく異国語に比すと記載されています。とほほ、がしかし飛騨人も都の人間と同じ日本人でした。律令時代に飛騨工は奈良・京都のことばをせっせと飛騨に持ち帰り、飛騨方言を洗練し平安時代に畿内方言の色濃い飛騨方言の骨格が出来上がったのです。京言葉直輸入、つまり純関西系飛騨方言です。やっほう。が律令制は崩壊、飛騨平家は木曽義仲に滅ぼされ鎌倉から戦国時代と暗黒時代へ突入です。
ところが当時・中世は神通川・飛騨川を遡り、とめどもなく裏日本と表日本の言葉が流れ込んできたのでしょう。新文化の波です。海岸の文明が内陸へと川伝いに言葉とととも遡上したのです。そして現代語とでも言うべき飛騨方言が文法・語彙ともに完成するのです。平安時代までは関西系、でも徐々に関東系の要素が入り込んでくるのです。あいのこです。(私には愛の子です。いいとこずくめ。)このようにして出来上がった室町・安土桃山時代の飛騨方言は実は今も飛騨の片田舎で語られている言葉と大きな違いはないはずです。
ところがさて、江戸時代の幕藩体制になり、民は徹底的に土地に縛られる奴隷となりました。飛騨方言とて例外ではありません。飛騨方言の極期です。でも実は国語学としては特筆すべき事、江戸に現代の共通語の母体となる江戸方言が生まれたのですが、飛騨の民は誰も知りませんでした。
そして幕藩体制は崩壊し時は明治、文明開化です。飛騨の人間が怒涛の如く東京へ向かいました。言葉の違いを卑下しましたが新しい言葉・東京語を覚える事は痛快でした。飛騨が実は純東京式アクセント圏である事が幸いしたのです。物怖じせず堂々と東京を渡り歩く飛騨人。でも田舎へ戻るといつもの飛騨方言です。という事でしたがそれもつかの間の一世紀、偉大なるかなマスコミの影響・これぞ真の文明開化・東京と飛騨の文化の差がなくなりつつある現在、一千年の歴史の飛騨方言は一世紀足らずしてあっけなく共通語に吸収されて消滅してしまう運命にあります。つまりザ・飛騨弁フォーラムは、飛騨方言の生き証人としてズバリ文字博物館となりはてる、トホホ。
上司に言いたい事を一行レポートしなさい、とよく叱られました。当コーナーをこれからあれこれ徹底的に肉付けはしますが、要するに佐七が言いたい事は以下のへたくそ漢文でございます。
まとめのまとめ (ちょっと古事記風のアドリブで)、律詩ではありませんが少し押韻してみましょう。
君不知太古人在 なあわりもしっとるがい、ご先祖様の事をなあ
獣採稲作村造財 むかしゃあ獣採ったり稲作っとったりなあ
思古来飛騨方言 そやが昔の人の言葉ってっていゃあよう
畢竟全輸入而減 みいんな全部よそから入ってきたやつやけどのうなってまった
明治文明方言去 明治時代からやさ、おりだちゃ段々飛騨方言そわんようになって
令和未来吾悟虚 令和から未来にゃこんなげばいた言葉ぁ誰も知らんろう
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