大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

飛騨方言学

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私:別稿・飛騨方言、飛騨弁、飛騨ことば、飛騨語から飛騨方言と飛騨弁の違いがわかりましたね。
君:ええ、幻の飛騨共和国の飛騨語なのよね。
私:いい事いうね。飛騨は天領、つまりは殿様はいなかった。飛騨の民はすべて庶民。飛騨はリパブリック、そこがいいとこなんだ。若し飛騨藩なんてのがあってもしも、僕の家は実はその家系で江戸時代の祖先は家老だった、なんて言うきざな野郎がクラスにいたら皆でよってたかっていじめてやらないといけないんだよね。
君:飛騨人のご先祖様がたには武士はひとりもいないのね!やはり飛騨はどう考えてもリパブリックなのよね。
私:ええ、完全に脱線しているけれど。要は飛騨のご先祖様は全員が庶民だ。つまりは私は庶民のことば、飛騨弁フォーラム、とした事に間違いはなかったと思う。
君:そんだけ?
私:ははは、からかうなって。ところで方言学という言葉はあっても弁学という言葉はないよね。今日は飛騨弁学だよ。
君:?方言、という言葉は独立語だから、方言の学問、つまり方言学があるけれど、弁という言葉は非独立語につき学問では日本語にならないわ。
私:機械工学でバルブの事を考え詰めたら弁学になるんだろ。人間の心臓には四つの弁がある。心臓内科医も心臓外科医も弁学のスペシャリストだ。それでも国語には方言学はあるが弁学は無い。
君:弁が立つ、などと言うから、弁、って実は独立語なのよね。
私:さあ本文だ。質問するぞ。古語辞典に、弁、はあるか?
君:その言い方!質問になってないわ。ないに決まってます。
私:そうだね。では日葡辞書に、弁、はあるか?
君:その言い方!あるんでしょ!
私:ふふふ、あったぞ。Ben no aru fito、Benno quijta fito、Benno canota fito、Benni canota fito。
君:弁のあるひと、弁の利いたひと、弁の叶のうた人、弁に叶のうた人、という事ね。
私:その通り、つまりは、話がたくみな事という意味で、弁、という言葉は安土桃山時代の庶民の言葉だったらしい。古語辞典にはないから日本文学の言葉ではない、という意味かな。
君:なるほど、つまりは江戸時代あたりからお国言葉があざやかな事を例えば、飛騨弁、というようになったのよね。ただし古典文学にはでてこない、という事なのね。
私:私も文学者ではないからね。つっこまれると。僕はアマチュアだ。さてついでだが日葡辞書に Benco も記載されていたよ。
君:べんこうな!飛騨方言ね!あんさまもなかなかべんこくさい。

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