大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 方言学< |
方言の伝達速度 |
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夜も更けていますので、寝ないといけませんが、少しお書きしましょう。表題は方言の伝達速度。その前に、方言は昔に都で話されていた言葉がゆっくりと地方へ広まり、それこそ何世紀もかけて、やっと地方の話ことばになった時には都ではそんにな言い方はとっくに廃れていて、つまりは田舎に残るかつての都の言葉が方言といわれるようになってしまうのです。 このような伝番の仕方を、地を這っていく伝搬の仕方、といい、各種の語彙について、全国での散らばり方を基に類推するのが、方言の伝達速度です。出典は明記しませんが、各種の方言学の入門書に書かれていますので、ご興味あるかたはお読みください。このサイトをクリックするあなたは、そう、私にはわかっています。・・そんな本は買いたくもないし読みたくもない。おい、左七、早く結論を書け・・と思っていらっしゃるかたです(失礼)。方言の伝達速度は時速ではなく、年速0.93キロです。ざっと一年に一キロメートルの速さ、つまりは100キロメートルを伝わるのに一世紀かかります。 あとは簡単、グーグルマップで奈良から飛騨高山市まで歩くと280キロでした。あら、意外と近いのね。60時間です。一日8時間歩いてたったの8日、昔の人は足が丈夫でしょうし。京都から飛騨高山はもっと近くて、240キロ、50時間です。江戸と飛騨高山はと言えば、勿論歩いて、340キロ70時間、京都奈良よりちょっぴり遠いですね。 こう考えると、平城京の言葉が飛騨高山に到達するのに三世紀かかります。平安京の言葉も三世紀前後、江戸の言葉は四世紀前後かかって飛騨に到達するような感じです。だから算数問題ですが、八世紀の平城京の言葉がプラス三世紀で鎌倉時代あたりには飛騨高山に到達していたのでしょうかね、答えは、否、です。租庸調の制度で全国から献上物が都に届きましたが、実は当時の飛騨は貧しい国で木以外何もなく、飛騨の大工・飛騨工を、つまりはマンパワーを献上し、都の造営にあたったのです。その総人数は、度忘れ、確か数万人です。奈良県に、飛騨町、という地名かあり、これが岐阜県の飛騨の国の名前の言われでは、とも言われています。奈良と飛騨は歩いて8日で、飛騨のすべての村から毎年いれかわりたちかわり大工さんが都を行き来していたので、実は飛騨方言は都直輸入にて方言の伝達速度は関係ないのです。わざと、という意味で、飛騨方言では、やくと(今昔,4,9)、というのですが、実は奈良平安時代から飛騨方言で使われていた可能性があるという事ではないでしょうか。 平安京の多くの言葉が飛騨高山に到達するには三世紀前後かかっているでしょうね。律令制が崩壊し、飛騨工が都と地元を毎年、行き来する事がなくなったからです。 続いては、江戸と飛騨高山ですが、飛騨は天領、つまりは幕府の直轄地でした。貴重な方言文献があり、飛州志、注目すべきは、でかい、という飛騨方言ですね、当時の中央、つまり江戸幕府では、いかし・威し、と言っていたのです。いかし、に、ど、を足して、どいかい、これは純粋な飛騨人の発明した言葉のようです。これが江戸に広まり、そして更には全国に広まってしまったようなのです。方言の伝達速度もあったもんじゃありません。スピードはまるでライン並みです。飛騨が発祥で、ついには全国に広まった、でかい、ブラボー。 それでも多くの言葉はゆっくりと北は富山から、南は岐阜と名古屋から伝わってきたのでしょうね。そんな言葉の伝搬スピードは一年に一キロメートルだったに違いありません。でかい、は例外中の例外です。 |
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