大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
都竹通年雄(3) |
飛騨のご出身の方言学者・都竹通年雄先生について既に二つの記事を上梓しました。故人となっておられてお会いする機会を逸してしまっています。ネット情報によれば1984年8月2日没となっていて、当時の私は名古屋大学附属病院にて新しく始まった循環器診断学の一手法・心臓核医学に没頭していた時代なので英文医学学術誌以外に興味は無く、飛騨方言については特に関心はありませんでした。私が飛騨方言に興味を持ち文献漁りを始めたのが2005年で先生の存在に気づいたのが2007/05/25だったのでした(ここ)。著作集は直ちに購入、但し次から次へと買い漁る国語学、方言学、言語学の学術書の山に埋もれて、正直申しますと積読の状態で、ここ数日、ようやく読み始めたところです。生い立ちについて書かれた文章がまっ先に目に留まり、お会いできなかった先生の生きざまについて、あれこれ、思いをはせています。願わくはおそらくは東京あたりにお住まいのご遺族がこの記事をお知りになってご連絡くださらないかとの勝手な願いが若し非礼になれば平にお許しくださいませ。 さて、先生は1920年岐阜県旧益田郡旧川西村尾崎(下呂市萩原町尾崎)のお生まれ、五歳で萩原町に移住、十歳で東京に移住となっています。たったこれだけの情報ですが、行間を読む仕事を開始しましょう。従ってご幼少期はおそらく以下のようなものだったでしょう。では ★ところでご両親とも尾崎のお生まれ、当時と言えば村の生業はほとんどが農林業、街道沿いにてごく僅かの商家程度。農林業の場合は生活が保障されるのは一切の家督を引き継ぐ長男だけです。おそらくは都竹先生のお父様は次男以下で、尋常小学校を卒業されると過酷な運命に対峙せねばならなかったのでしょう。戦前・農地改革前の村の事でした。若しかして小作農。ならば子供にこれまた明るい将来はありません。貧困の連鎖。そんななかでも両親の愛情に育まれてお育ちになったという事なのでしょう。 ★五歳(1925)で尾崎の村を離れ萩原の町に移り住んだ、とあります。つまりは両親はおそらくは尾崎での生業に辛酸をなめ、なにか商売でも、あるいはどこかの雇われ人として生計を立てるべく、尾崎村をお捨てになったのでしょう。 ★ところが萩原での人生も五年しか続かず、やはり生活は苦しかったという事なのでしょう。お父様は東京にいる同郷のどなたかにお手紙をお書きになったに違いありません。ここ萩原での人生よりも、なにか東京で職につく事ができないものだろうか、身元引受人になっていただけないか、なにか職を探すのに口添えしてもらえないかと。 ★返事がきました。そして幾度の手紙のやりとりで、両親は東京への移住を決心します。帝都での新生活という思わぬ転帰。都竹少年に希望の光が灯ります。 ★十歳(1930)、さあ、東京へ向けて出発です。ところが当時、鉄道が飛騨萩原まで来たのは翌年1931(昭和6年)です。旧国鉄高山本線の全線開通は1934年10月25日の事でした。 ★鉄道が無ければバスがあったのかも、ただし国道は未舗装、飛騨川の崖を這うように蛇行し、人々の交通手段は一般的にはひたすら歩く事。一家は一番下の子供の歩調に合わせてトボトボと萩原から最寄りの駅、つまりは飛騨金山あるいは下呂までお歩きになったのでしょう。もっともご両親は一家の家財道具、それは行李、これを背負います。遠足気分ではしゃぎながら前を歩く子供達。それを汗を拭きながら追う両親。 ★東京での生活も最初は決して楽ではなかったはず。つまりは都竹一家の唯一のセーフティネットは同郷の人々のつながりだけです。つまりは大衆が住む帝都において飛騨萩原方言だけが彼等の心のよりどころ。 おそらくはこのようなプロセスにて都竹少年は東京での小学校生活をスタートなさったのでしょう。彼はその後、病に倒れ、更なる過酷な青年期を迎える事も知らず。・・当時の病気と言えば・・おそらく結核。特効薬無し、唯一、針による人工気胸の治療が当時の医療のすべて。当時の数々の文学作品によく出てくる病気のテーマです。例えば、遠藤周作・海と毒薬、の冒頭の記述など。 以上は全て筆者の推察です。明治大正の私の祖父母が若かったころの事を幼い私に教えてくれた事を覚えていてここに書いただけの話ですが。末筆ながら尾崎での都竹先生のご幼少期は暗くなれば皆が寝るだけ、電気もあったがランプもあった生活、そんな可能性が大きいのです。もし違っていたらごめんなさい。 |