大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

位山官道(くらいやまかんどう)

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私:昨晩は方言区画論的立場に基づき、岐阜県には★山間部の方言たる飛騨方言と★濃尾平野の方言たる美濃方言、この二つがある事を論じた。ここ
君:左七の立場としては藩制の線引きによる方言区画論的立場に批判的な立場で、方言区画は自然地形を重視すべきじゃないかという立場ね。
私:うん。自然地形に従って人は移動もするし、言葉も伝わっていく、婚姻圏であれば同一の言葉になりやすい、というような立場。ところで話変わって「海の道」という言葉を知ってる?
君:飛騨方言とは関係ない事でしょ。
私:まあね。「海の道」に関して、人が住む島が一番多い県は?
君:沖縄?
私:いや、確か長崎県のはず。大小合わせて400ほど。地元のバスガイドさんから聞いた。壱岐・対馬も実は長崎県。方言学では「壱岐・対馬には海の道がある」という。
君:海上交通が太古から盛んだったという意味かしら。
私:その通り。それに伴い壱岐方言と対馬方言には共通点が多く、お互いに影響を及ぼしていたのは間違いない。言葉が行き来した点において道といっても差し支えない。これが方言学で言う「海の道」。続いては僕が今かってにつけた名前「山の道」。
君:ほほほ、道のバリア・関所かしら。箱根山。
私:違う。関所というのは幻想、みつかっても「道を間違えました」と言って賄賂を出せばフリーパス。一番に怖いのが山賊。僕の住む町・岐阜県可児市だが、旧中山道の中でも御嶽の宿から大井の宿、大半が山中、は道が未だに残っている。しかも未舗装部分も多く石畳すら残っている。ハイカーでにぎわうが、これがまたなんとあきれるばかりのまっすぐな道。五街道で現存するのは中山道の一部だけです。しかも妻籠・馬籠と違い、御嶽・大井間は観光施設は皆無に近く、江戸時代の道が今尚ひっそりと生活道路として残っているのです。ご興味ある方は是非、お越しを。
君:という事は起伏は激しいのね。
私:そう。二点の最短距離は二点を結ぶ直線に在り、という事で起伏を無視してまっすぐに作られた道、それが中山道。現存する旧街道という事で歴史的価値は極めて高い。
君:いいから、今夜は飛騨方言、位山官道、の話だわよ。
私:おっと失礼。全国の皆様へ簡単に飛騨の歴史を。飛騨高山市には国分寺があり、聖武天皇の時代は飛騨高山が日本の東端でした。律令制、つまりは租庸調で飛騨に献上できるものは何もなく、そこで考えられたのが人頭税・飛騨工。飛騨の各村々から一人ずつが選ばれ都の造営に携わるという仕事。つまりは都と飛騨を行き来する年間百人の短期出張者。その数は延べ四万人。律令制崩壊まで飛騨工制度は続き、飛騨方言が奈良平安の畿内文法に近いのはそのせいと考えざるを得ません。奈良市界隈に故郷を偲んで飛騨町その他の地名が多いのもその為です。飛騨の出身者が作ったコミュニティというわけです。これが歴史秘話、奈良・京都と飛騨の不思議な関係。
君:つまりは方言区画としては飛騨の南側はあってなかったようなもの、奈良平安時代に飛騨工が自由に行き来していたのね。
私:その通り。彼らの通った山道の一部が位山官道。岐阜県が推薦する親子でハイキングにお勧めの道。マップでは10−12の赤い線だ。高山市一ノ宮町から下呂市萩原町尾崎までの山道。
君:なるほど飛騨川を無視してショートカットの山道だわね。
私:今は舗装道路になっていてオートバイ・普通車なら難なく通過できる。大型車は不可。「飛騨工がこの道をテクテクと歩いて都と飛騨を行き来しました」という案内看板も立っている。ただし2021・9月現在、道路工事で年内は通行不可。2020昨年の飛騨川氾濫で国道41号が決壊した時は緊急う回路として大活躍したのにね。皮肉な話だね。
君:そうね、41号も位山官道もここ二年は踏んだり蹴ったりね。それはさておき、位山について説明してね。
私:位山官道の西側にそびえたつのが位山。イチイの木の原野があり、平安以降の歴代の天皇、つまりは令和天皇に至るまで全員、がお持ちになる笏(しゃく)を献上してきた事で有名。位山の裾野を行く山道なので位山官道。
君:なるほど位山の意味はナンバーワンという事だったのね。それに、ほほほ、今、もう一点気づいた事があるわよ。
私:えっ、何?
君:海の道も山の道も一直線。ほほほ

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