大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 方言学 |
感情語彙・感覚語彙 |
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私:仕事柄、患者様の症状をお聞きする事が重要になるが、時々、困る事もある。 君:表題から類推すると、患者様の訴えが方言であった場合の事ね。 私:早速に例題。「ずつない」という形容詞がある。 君:普通は使わないわね。聞いた事が無いし、使った事が無いからそもそもが意味が判らないわ。 私:実は土田吉左衛門「飛騨のことば」には記載があった。君と同じで僕も使わないし、生まれてから斐太高校時代に至るまで聞いた事が無い。僕の開業している地は濃尾平野の北端だが、そのような訴えの患者様がいらっしゃるので、まずはカルテには「ずつない」と記載し、そして患者様に「言葉の意味が分からないので、より具体的に、別の言葉で言い換えてくださいませんか。」とお尋ねする。 君:そうせざるを得ないわね。濃尾平野の言葉なのね。 私:ああ、それだけは間違いない。手元には各種の方言資料があるので、知り得た事をお書きすると、「ずつない」は全国各地の方言で、日本方言大辞典全三巻によると、その意味はざっと14種類。 君:やれやれね。その中のどの意味に該当していたの? 私:「つらい・せつない」の意味で出典は岐阜市史(岐阜市役所)1928と大垣市史(大垣市役所)1930。あくまでも類推だが、かつてはこのような言葉がありました、というような方言語彙の紹介の可能性が高いね。つまり死語。 君:でもあなたの患者様は最近の事でしょ。平成・令和の時代でもまだお使いの患者様が現にいらっしゃったのでしょ。 私:それはそうだが、どうもそのおかたは「頭痛がする」というような意味でお使いだった。現に日本方言辞典の14通りの意味の中には「頭痛がする」の記載もある。はなはだしくは「なにもしないでなまけてばかりでだらしが無い」(山梨)の意味すらあった。 君:あなたなら古語「ずつなし術無し」(形ク)が語源かな、と思い浮かべるわよね。 私:勿論だ。更にその語根は「ずつ・ずち術」。加える事に「なし無」だから、「方法・すべ」がない、というのが原義だろうね。どれ、古語辞典だ。「ずつ・ずち術」出典は三体詩抄。どうだい。 君:抄物の一つね。「三体唐詩」の注釈書。月舟寿桂のもの(1527年頃成立)、雪心素隠のもの(1622年刊)など多数あるわ。 私:つまり、何の事は無い。近世語という事じゃないか。古語辞典によっては主として男の言葉との記載もある。漢語っぽい言い方だよね。 君:でもたった一つの言葉「術無し」が数世紀を経ただけで14通りの意味になってしまったとは考えにくいわよ。たまったものじゃないわ。・・・ほほほ、ひとつ見落としがあるわよ。「ずつない」は近世語ではないわ。 私:えっ、見落とし?えっ、若しかして中世語? 君:心配しないで。直ぐにお教えするから。 私:あ、はい。古語「ずちなし」は元々は、単なる言い換えだか、万策尽きた、つまりは精神的に参っている、という意味だから、体が痛い、というような意味ではなかったんだよね。 君:ほほほ、勿論よ。物事は慎重に考えましょう。ところで、どこかの地方の方言では「精神的に参っている」という意味で、つまりは江戸時代の意味に忠実にお使いなのでしょ。 私:ははは、君も鋭いな。「どうにも手段、方法が無い」(神奈川・長崎)。 君:更には「じゅつない」と発音する地方もあるでしょ。 私:おっ、その通りだ。「じゅつない」(久留米・島根・滋賀・大阪等)、全国区だね。 君:つまりは古語辞典に戻って「じゅつなし」も見ないと駄目なのよ。 私:なるほど、そうか。「じゅつなし術無」(形ク)。意味は同じだ。出典は雑談集、和漢通用集、 君:雑談集(ぞうたんしゅう)は鎌倉時代の仏教説話集よ。 私:えっ、そうなんだ。「じゅつない」は鎌倉から、「ずつない」は江戸時代、という事になるじゃないか。 君:その通りよ。大鏡や宇治拾遺にも出てくるわよ。 私:へえ、そうなんだ。 君:14もの意味の種明かしとしては、中央では江戸時代まで意味が変わらなかったけれど、鎌倉時代から地方で様々な意味で使わるようになり、現代に至るという事じゃないかしら。 私:うん、多分そうだ。鎌倉から現代に至る長きに渡って意味がどんどん変化した一方で「ずつない」の音韻変化はそんなに多くない。「ずすない」「じちない」等はあるが、なんと何世紀経てもびくともしない音韻が接尾語(辞)「ない無」、ただし感情語彙・感覚語彙であるがゆえに様々な意味に変化して来たという事だね。然も明治になって中央では「ずつなし」が使われなくなり、かくして全国各地の様々な意味を持った「ずつない」が方言に認定されたというわけだ。 君:では、そろそろ結論ね。 私:はい、喜んで。感情・感覚はひとそれぞれ、従って感情の方言を用いた会話については、どのような意味でお使いなのか慎重に見極め、詳細な問診を怠らない事が肝要。痛みを著す表現等、感情語彙・感覚語彙は方言量は少ないが、その言葉の意味・内容は全国的に多岐に渡る事が多い。また微妙な意味の違いを含み、全国各地の方言間で意味が異なる事があるのは勿論、同一の地方においてすら意味に個人差が実はある可能性をはらんでいる。ふう 君:では本日の感情語彙「あーれ、こーわいさ。」 私:ははは、突然に飛騨方言か。「よくわかったわね、お利口さん。」という意味だよね。いとをかし。 君:御冗談がお好きね。「やっとお気づきなのね、おバカさん。」という意味よ。をこなり。 |
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