別稿にありますように飛騨方言は関西方言の流れを汲み、
居るを用い、いるは使用しません。
尤も日本人の多数が用いる言い回しですから、団子をかいどった、と言っても、
嗅いでおった、という意味ですね、と(フムフム)どなたもお解かりになりましょう。
しかしながらそんな事のためにわざわざキーボードに向かうような佐七では
ありません。実は・・・画用紙を相手に、
(嗅ぎもせずに)お団子を書いておった、という意味なんですよ、ふふふ。
書いとった、といっても飛騨方言ですが、書いどった、と濁っても飛騨方言です。
また、"嗅いどった" のみならず "嗅いとった" も、どれもこれも全て飛騨方言です。
勿論、共通語で連用形撥音便になる動詞は飛騨方言でも濁音になり、清音にはなりません。
例えば、読んでおる、は、読んどる、です。共通語と同様に、読んとる、とは言いません。
また共通語と同じく、末語・く、の動詞連用形促音便は飛騨方言でも必ず清音です。
例えば、行っておる、は、行っとる、です。共通語と同様に、行っどる、とは言いません。
ここまで書けば賢明な読者の方はお気づきですね、書く・嗅ぐ、でひとつの
テーマが出来たのだから、
他に二対の動詞がないか、
(ある語幹)く・(同音の語幹)ぐ、
(ある語幹)す・(同音の語幹)ず、
(ある語幹)つ・(同音の語幹)づ、
(ある語幹)う・(同音の語幹)ぶ、
の対の動詞が他にないか、暇な時に探してみる事、
・・・・じゃなかった、探いでみる事ですね。
例えば、屁をこく・ボートを漕ぐ、なんてのが早速に思い浮かびますが。
両方とも、こいどった、になるのですが、品の無さという点ではアウトでしょうね。
しゃみしゃっきり。