大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 歴史

東大寺諷誦文稿

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私:今日は表題について。とうだいじふじゅもんこう、と読む。奈良時代のもの。
君:一般的にはほとんど知られていない言葉ね。
私:そうだね。僕も方言などと言うものに首を突っ込んでいなければ、この書には生涯、逢わずにいただろう。ただしあまり難しい話ではなく、ひとくち方言知識のような感じの方言千一夜物語にしたいと考えている。当サイトは方言エンタメサイトを自認している。早速だが「東大寺」+「諷誦文稿」に分解できる複合語で、二語は統語構造になっている位はわかるよね。固有名詞「東大寺」の説明は省こう。まずは「諷誦文稿」についての説明だ。固有名詞か、一般名詞か?
君:一般名詞に決まっているわよ。だって接頭語が固有名詞なのだから。固有名詞が固有名詞を修飾する事は考えられないわ。
私:その通り。では「諷誦文稿」が、これまた複合語のような感じだね。分解してみよう。
君:「諷誦」+「文稿」あるいは「諷誦文」+「稿」だわね。
私:おっ、鋭いな。文稿が漢和辞典にある。文章の下書き、文案の事だ。ところが角川古語大辞典全五巻には「諷誦文」の説明がある。更には日葡辞書にも Fujumon の説明がある。
君:となると「諷誦」+「文」+「稿」まで分解できないかしら。「諷誦」は独立語なる仏教語だと思うけど。
私:完全正解だ。「諷誦」も実は日葡辞書に記載があって、 Fuju 諷誦文とも言い、坊主 Bonzos が死者の事について読み上げる書き物、という記載だ。
君:でもポルトガル人によるポルトガル人の為の辞書ね。だから要はなんちゃって日本語。正確な記載とは言えないわよ。
私:ははは、その通りだ。仏教用語だからね。角川古語大辞典の記載を紹介しよう。諷誦文とは主として追善供養や逆修(仏語、生前供養の事)、その他造寺・造塔などの祈願の仏事にその趣旨や願意を述べて仏前で読み上げる文章。諷誦とは要するに経文などを声を出して読み上げる事。
君:ええ、これで東大寺諷誦文の語意はわかったとしても、ちっとも千一夜物語としては面白くないわよ。
私:ははは、待っていたぞ、その言葉。実は東大寺諷誦文を一言で表すと、日本語には方言があります、と書かれた、日本で最初で最古の書なんだよ。然もですね、当時の日本、つまりは大和の国の方言とはなんと驚くなかれ、東国方言と飛騨方言の二つです、と書かれているんだ。なんと奈良時代に飛騨方言は東大寺認定の日本を代表する方言だった。
君:ほほほ、つまりは当時の大和朝廷の勢力範囲がわかるというものよね。
私:その通り。辺境の言葉が方言、これは昔も今も変わらない。日本史のおさらいになるが当時の日本・大和朝廷にとって日本の東の果ては飛騨、それに東国、つまりは北アルプスまでだった。長野県や東北は蝦夷(えみし)という名の外国だった。九州も四国も外国だった。日本方言なるネット情報がある。中国人が日本の方言、しかも古代にまで遡って研究していらっしゃるんだね。奈良時代の飛騨方言が国際的に注目されていたとは。つい先ほどまで知らなかった。
君:飛騨方言最高、みたいなお話なら飛騨の人々はお喜びでも、飛騨以外の人達にとっては案外、どうでもいい事かも知れないわよ。
私:まあ、そんなところだ。でも折角だから続けさせてくれ。東大寺諷誦文稿をキーワードに検索すると、全文が判り、口語訳まである。これも簡単な一言で説明するとお釈迦さまはスーパー言語AIで、何の言葉でも判るんだ。外国語も、日本の方言も、動物の言葉も、草木の言葉も判る。
君:全知全能なのね。
私:東大寺諷誦文稿注釈〔四〕に京都大学の小林真由美先生の口語訳がある。「それぞれの世界で正法を講説する仏の能力は、詞无碍解である。大唐、新羅、日本、波斯、混崘、天竺の人々が集まる時は、如来は一度にそれぞれの言葉でお話をお聞かせになる。たとえば、(この国の方言、飛騨方言、東国方言である。飛騨の国の人にむかっては飛騨の国の方言で(お聞かせになる)お話をなさる。まるで通訳のようである。」以上、原文のまま。彼女の論文を通読すると飛騨方言について、というか当時の日本人の方言感覚という全体像がより鮮明になって来る。
君:うっとりするような内容なのね。
私:その通り。興味を持って読むと経文も結構、面白いし、漢文のトレーニングにもなる。ただし一般の方々には仏教の経典を口語訳で読む事をお勧めする。説話などは人間の心に響く童話のような世界だ。さて我が家は浄土真宗なので、教行信証以外に三つの大切な経典があるが、大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経。
君:一言で説明してくださるかしら。
私:望むところ。手塚治虫の漫画「ブッダ」全巻を読んだお方は結構、多いのではないだろうか。実は大無量寿経と内容は同じ。つまりは釈迦牟尼世尊の生涯を物語として書き記したもの。あまりにも長いのでコンパクトにしたのが観無量寿経。阿弥陀経はさらに短い。法要で詠まれるのは通常は阿弥陀経だ。阿弥陀経は一言で表現すると「極楽最高!」と言う内容。生あるものは必ず死ぬ。人は死ぬために生まれてきたのだ。死が非条理以外の何物でも無ければ、死に向かって生きている我々の人生に何の意味があるというのだろう。阿弥陀経を信ずる限りは死ぬ事は決して怖く悲しい事ではない。ましてや取り返しのつかない事でもない。私は生きている事を感謝しつつ、静かにその時を待とうと思う。
君:子曰朝聞国語道夕死可矣、という事ね。ほほほ

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