中世における飛騨方言ではなく、現在の飛騨方言に
ナリ活用とタリ活用が生きている、そんな愉快なお話をしましょう。
まずは判り易い話から、飛騨方言における形動ナリ終止形に
お示しした通りですが、例えば、
あーれ正直な。ええ人や。
(あら、正直ね。いい人だわ。)
で、正直な、がナリ活用の文例です。
中世には、彼(か)ぞ正直なる、などと言われていたのでしょう。
二拍が一拍に、つまり語の脱落、しかもラ行は言いにくいし、
低アクセントなので(ナリ▼○)脱落しやすかったのです。
次いで、ええひとや、という文章が
実はタリ活用が変化したもので可能性についてお示ししましょう。ナリ活用は口語で用いられ、タリ活用は文語で用いられる、というのが一般的な考え方かと思いますが、時代を順次、遡ってみます。
ええ人や。 平成
ええ人じゃ。 明治
ええ人ぢゃ。 江戸
ええ人でぁ。 お伽・イソップ -->関東で 〜だ。に変化
ええ人であ。 室町?
ええ人である。 室町?
ええ人であり。 中世
ええ人てあり。 平安時代 -->ええ人たり。が分岐
ざっとまあ、こんな調子で一千年の間に、〜テアリ、が、〜ヤ、に変化してしまった可能性があろうかと思います。
東西方言対立の指定の助動詞・だ/じゃですが、中世の言い回し、でぁ、から二つに分かれ、というのが定説かと思います。
私なりに道理で納得です。さて複雑な変化をして、似ても似つかぬタリ活用になってしまった飛騨方言ですが、明治から平成にかけて、〜じゃ、と言わなくなったあたりが言葉の変化量としては際立っていると思います。
考えられる理由のひとつは、明治政府の国語政策でしょう。方言は悪い言葉だから皆、東京語( 関東での、〜だ、という言い回し )を使うようにとのお達しだったのですが、指定の助動詞の東西対立、だ(東日本)・じゃ(西日本)、があって飛騨全体が西日本に含まれます。
ええひとだ、と言う東京の人たちの言い回しが余所余所しい感じで、恥ずかしくて、どうしても言えないのですね。
そして、〜や、と話してみるとこれがなかなかいける、少し垢抜けた感じもするし、と言う事で、明治以降に生まれた方々は、〜じゃ、を話さなくなってしまったのでしょう。かってな想像ですが。