大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 歴史

1953-2008 岡崎敬語調査

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私:今日の話題は表題の事について。昨晩は文化庁の敬語の指針なるものが目に留まり、日本語の敬語なるものに興味を覚えたのであれこれ、数時間ほど調べものをした。ネット公開資料の斜め読み、手元の数冊の国語学・方言学の資料、これが私の情報源の全て。私は市井人である。三教科で国語が一番苦手だった。従って生業はザ・理科系。教養部では・・源氏物語の講義を選択しただけ、国語の知識は無いに等しい。でも最近、国語がとても楽しい事に気づいた。つまりは、ハマっている。
君:まずは表題について説明なさらないと。
私:ほいきた。岡崎敬語調査が公開情報。岡崎敬語調査データベースなるものも公開されている。簡単にひと言、愛知県岡崎市で三回(1953年・1972年・2008年)に実施された敬語と敬語意識に関する経年調査。半世紀に渡るという事で研究者が入れ替わっている。柴田武先生がお始めになり、井上史雄先生がおまとめになったという事だろう。
君:敬語は仕事の上でも大切な話術、ネット情報も多いわね。
私:結論から申し上げると、調査対象数が足りないんじゃないかな。インフォーマントだが'53年434人が'72年には185人、'08年には20人にまで減少。新規インフォーマントを'72年には400人追加するものの'08年には62人に減少。'08年には更に新新規インフォーマントを306人追加。半世紀にわたる大規模調査とは名ばかりと言う事でしょう。
君:裏話みたいなものがないしからね。
私:'53年は伊賀上野でも同様調査をしたが、'72年では岡崎のみに絞っている。下衆の勘繰りだが、伊賀上野は明らかに関西圏で敬語の変遷を知るには不適という事で'72年には失格だったのかな。井上先生によると日本語の敬語は冬の天気予報のキーワードと同じで西高東低型。関西は敬語が強烈で、東京は淡白。戦後に福島県の白河調査というものもあったが、東北は訛りがひどくて調査不向き、という事で中部地方でも名古屋の少し東京依りという事で愛知県岡崎が選ばれたのだと思う。岡崎の'53年・'72年の両データを見比べた先生方が、これで終わりだよ・多分なにも出てこないかもね、という事で'08年に三度目の岡崎調査を不退転の覚悟でなさったのでは、と思う。戦後三回に渡る調査だが、'08年井上報告が最終報告として最も膨大な資料になっている事は書くまでもない。
君:でも、このような調査が社会に与える影響って無いわね。
私:ああ、無い。それにお金の問題も。いったい誰がお金を出すんだい。
君:有吉のお金発見 突撃!カネオくんね。
私:お金がなくては何もできない。芸術にはパトロンが必要で、科学研究にはスポンサーが必要。
君:敬語の研究に資金を提供する企業は無いわね。
私:科研費を狙う事だな。あーあ、大学病院時代が懐かしい。僕にもこんな時代があったんだ。
君:いくらぶんどったの?正直におっしゃいなさいよ。
私:心臓核医学という分野の黎明期、それは良しとして、お恥ずかしながら六桁ばかりだった。そしてそのお金は患者様に大学病院に検査にお越しいただくお車代に全て消えた。でも幾つか論文を書けて、米国のある製薬企業から七桁の奨学金をいただいて渡米した。35年も前の古い話。
君:あなた、このサイトを運営する目的で今までに国語学や方言学の書籍を買いまくったわね。
私:うん。見当がつかない。六桁、いや七桁かな。
君:なんじゃと、どこからそんなカネが出てくるんじゃ?!

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