大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

ソシュール学説・その二

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私:いやあ、私も飛騨方言の事ばかり考え続けて早、三年です。議論がどんどんエスカレートして。また、あなたにご登場願いました。
友:面白い話ですか。
私:有難う。いやあ、面白いのなんのって。
友:おっ、いつもの元気なお言葉、ではどうぞ。
私:はい、では。実は昨日は言語学の根本原理ソシュール学説を当コーナーに上梓しました。
友:どれどれ、(クリックして)言葉なんて世界中こんなものだ、っと気づかれた神様みたいな言語学者がいらしたのですね。
私:そうなんですよ。今日、またソシュール学説を裏付ける飛騨方言データを発見、ソシュール学説は真実です。
友:・・飛騨方言のデータと言っても。飛騨以外の人にとってはたわごとでしょうが、ふふふ。そんなに書きたいのならどうぞ。
私:ははは、なにせ真理というのは偉大だからねえ、ところで、飛騨方言のセンスにあっていれば○、あっていなければ×という 事で、・・
あれっ、雪やえな!はや冬やで、こーわさいさなあ。−−○
あれっ、雪やいな!雨でぬくといと思っとったになあ。−○
この飛騨方言をどう思う?
友:ははは、同じ意味ですよ・・じゃないんだ。とんでもない違いがあるのかな。
私:そうそう、そうこなくっちゃなあ。でも・・・philosophic ですが。
友:ははは、かまわず、お話しなさいませ。
私:ありがとう。ではつまりは初めて会話に出てくる話題に対して話せば、えな。既出の話題、あるいは共通の知識の土台の上に話される話題に対しては、いな。
友:・・むむっ、そうですね。えな・いな、は発音が異なるどころか、意味が異なり、つまりは全く別の品詞と考えたほうがいい、という事ですか。これこそ、ソシュール学説ですね。
私:その通りです。いう事なし。つまりは用法が変われば、例え読みが同じでも別の単語です。同音異義語という事か、簡単な事をわざわざ書いているなあ、僕も、ははは。いやっ、「えな・いな」は異音擬似同意語だな。これなら高尚な話題に聞こえちゃうぞ。格助詞「は・が」の使い分けと同じ事が文末詞「えな・いな」にも当てはまると思う。
友:文末詞いな・文末詞えな、二つには微妙な意味の違いがあるのですね。私は実は、えな、の語気を強めた言葉が、いな、かと思っていました。
私:ははは、あなたとは気持ちが通ずる。ところで昨日はネットに携帯のチャットのようなサイトを発見、お互いが飛騨方言で盛り上がっているんだ。サイトのアドレスは・・いや伏せておこう。 やっと本題ですが、突然の地震に怖かったいな、というメール文を発見した。これは私が使う飛騨方言ではない。私はもう若者とは飛騨方言でチャットは出来ぬと感じた。
友:なるほど、既出の話題に対して、あの地震は本当にこわかったいな、と言えばあなた流には飛騨方言のセンスにあっているのですね。ここはひとつ、突然の地震に怖かったえな、と書かなくてはいけないという感じですか。中越地震の事、新潟県民には恐怖そのもの。
私:・・だねえ。それ以外は考えられない。さて僕は同世代かもっと古い世代としか飛騨方言を話してはいけない。若者は既に新しい飛騨方言を語り始めているんだ。僕の飛騨方言はおじん言葉だ。たったひとつのメールが僕にその事を教えてくれた。
友:ははは、いつもはあなたが元気で私がクシュン。今日は逆。でも言葉なんてだいたいあっとりゃあ・・ええながいな。あんさま、あんきに話しんさいよ、ははは。飛騨方言の多少の意味の違いなんか。そのほうがソシュール先生もよろこばさるって。ははは。
飛騨方言の二つのシニフィアン「えな・いな」に対応するシニフィエは日本人なら容易に使い分けできる格助詞「は・が」のシニフィエに通ずる。最近の飛騨言葉ではそのシニフィエを無視する傾向にあるようです。

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