鏡花水月 3



眩しすぎるほどの日差し。
くらりと眩暈を覚えるものの、その感覚ですらどこか心地良い。
この太陽の下では、真っ当な人間でいられるような気がして。それが欺瞞でしかない事は重々承知の上で。それでも今この時だけは、何もかもを忘れて太陽の温もりに包まれていたいと思う。
今日は非番。ここでゆっくりしていても、誰からも文句は言われないはずだ。
屯所でも奥まったところにある縁側。そこに腰を下ろし、遠くから聞こえる喧騒を耳にしながら柔らかな日差しに包まれて―――
ふっと目を開けると、目の前に山崎さんがいた。
 
「す、すみません、さん。起こしてしまいましたか?」
「あ、いえ。気にしないでください」
 
この陽気につい寝入ってしまっていたらしい。ミントンのラケットを手にしているあたり、どうやら山崎さんはこんなところまでミントンをやれる場所を探しに来たようだ。それはまぁ、目立つ場所でやっていては、いつ副長に見つかって怒鳴りつけられるかわかったものじゃないだろう。
くすりと笑うと、邪魔をしても悪いと立ち上がる。予定外に寝てしまったのだ。今日のうちに片付けるつもりだった雑事に取り掛からなければ。
何の気なしに立ち上がった瞬間、くらりと視界が揺らぐ。立ちくらみ。それは一瞬のことで、すぐに治まったのだけれども。
それでも揺らぎかけた身体を見て察したのだろう。山崎さんが「大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてきた。
 
さん、疲れてるんですよ。最近続けざまに大きなネタを仕入れてきてるじゃないですか。仕事も大事かもしれないですが、まず自分の身体を大事にしてくださいよ」
「心配してくれてありがとうございます。でも私は大丈夫ですから」
 
そう言って笑いかけると、山崎さんも困り顔ながら笑い返してくれる。
もちろん彼は、私がどんな手段をもって仕事をこなしているか、知らないはず。
だから純粋に疲労を心配しているのだろう。
心配させてしまって申し訳ないと思う。思いはするのだけれども―――
 
 
 
 
 
 
―――それでも、疲れているのは確かだと思う。
夜毎の男たちとの駆け引きは、肉体よりも精神の疲労の度合いが高い。
男に気を遣い、抱かれる事に対する嫌悪感を堪え、そうと気付かれないようにさりげなく話を聞き出して。
しかも最近はそれに加えて、ますます精神的に疲れる要素ができてしまった。
高杉晋助。
一体何がしたいのか。どんな目的があるのか。未だにわからない。
ただわかるのは、この男が来るたびに有益な情報をもたらしてくれること。そして―――この男に抱かれることに、初めの頃ほど嫌悪感を感じなくなってきているということ。
諦めとも慣れとも違う。
悪意と殺意でもって抱かれた最初の時。そしてその後に一度だけ乱暴に扱われた以外は、驚くほどに優しい抱き方をする。
その真綿に包まれたかのような優しさに、自分でも気付かない内に恐怖感も警戒心も薄れてきてしまったらしい。
こんな事では駄目だと叱咤する理性がある一方で、この空気に居心地の良さを感じ始めている私も確かに存在している。
―――こうして目の前で無防備な寝顔を晒されてしまっては、少なくとも警戒心など起こしようがない。
遊郭の中とは言え、本来は敵対する立場にある私の前で寝るなんて、高杉の方こそ余程疲れていたのだろうか。
それにしても、と思う。この穏やかな寝顔だけ見ていたら、とても指名手配中の人間とは思えない。むしろどこか少年じみたその寝顔に、見たこともないのに少年時代の高杉がふと重なって見えて、思わずくすりと笑ってしまった。
きっと昔から、周囲を煙に巻いて困らせてきたのだろう―――
 
―――そういう笑い方もできるんじゃねェか」
 
不意に開かれた隻眼に、どきりと心臓が脈打つ。
寝顔を見ていた事を知られてしまった気恥ずかしさだけではない。
言われた言葉に熨斗をつけて返してやりたいというのはまさにこの事だろうと。そう思ってしまう程―――常々浮かべる皮肉げな笑みとは違った穏やかな笑みを、目の前で高杉が浮かべていたのだから。
思いもかけない状況にどう反応してよいやらわからず、ただ呆けたように動けずにいる私の目の前で、高杉はゆっくりと身を起こす。
互いに襦袢を羽織っただけの姿。未だ冷めやらない肌の火照り。絡み合う視線。
引き込まれるかのようなその眼からは、視線を逸らすことも叶わない。
その口が、やけにゆっくりと開く。
 
―――好きだ」
 
噛み締めるように、殊更ゆっくりと紡がれたその言葉。
以前に似たような言葉を告げられた時には、冗談だと直ちに切って捨てた。信憑性も何も無い、軽薄な台詞だとしか思えなかったからだ。
けれども今は。
信じる信じないの問題ではないのかもしれない。
その言葉を受け入れるでも拒絶するでもなく。黙って次に紡がれる言葉を待っている。
 
「好きだ、
 
繰り返される言葉の響きにも高杉の表情にも、冗談事など一切感じられない。
何を言われたのか。わかっていても理解ができないまま。呆然とする私へと伸ばされる手。
頬に添えられた手のひやりとした冷たさが妙に心地良い。そのせいだろうか。払い除けることもせず、されるがままでいてしまうのは。
掴まれているわけでもない。その気になれば、逃れることもできる―――はず、だと言うのに。
ゆっくりと近付いてくる顔。
身動きのとれないまま、私は目を閉じた。諦感からではない。むしろ―――
重ねられた口唇に、不快感を感じることはなかった。
待ち望んでいたわけではないけれど。それでも拒絶することもできなかった。この男にならば構わないと。ただ漠然とそんな思いに駆られただけで。
口吻けの仕方などろくに知らない私は、どう反応したら良いのかもわからず、相変わらずされるがまま。
差し込まれた舌に驚いて身を引きかけたものの、一度受け入れてしまった以上、そんな事が許されるはずもなかったのか。引きかけた身体に腕を回されたかと思うと引き寄せられ。空いている手で後頭部を押さえ付けられ、ますますもって逃れられない状態にさせられる。
襦袢越しに密着する身体。それを跳ね除けることも、かと言っていっそ縋ることもできず、持って行き場のない手は中途半端に宙を掴むのみ。
目を閉じているにも関わらず、くらりと眩暈にも似た感覚を覚えたのは、襦袢越しに仄かに伝わる身体の温もりのせいか。それとも終わる気配のない口吻けのせいか。
息苦しさに酸素を欲しても、口唇を塞がれているこの状況で思う程に吸えるはずもなく、微かな隙間から喘ぐようにしか求めることができない。
そんな私の様子に構うことなく、高杉は私の口内を余す箇所なく犯す。歯列をなぞり、舌を絡ませ、唾液を流し込み。軽い酸欠状態になっているのか、何を考えることもできずにいる私は、流し込まれた唾液を素直にこくりと飲み込んでしまった。
それでようやく気が済んだのか。離された口唇の間を銀糸が名残を惜しむかのように繋ぐ。
荒い息を整えようという考えも起きず、私はただぼんやりと視線を宙にさ迷わせるしかできない。
 
―――俺にしておけよ」
 
何を、とは高杉は言わなかった。私もまた尋ねることをしなかった。
定まらない視線と同様、思考もはっきりとは働かない。ぼんやりと視線を返した先には、隻眼が真摯な光を湛えていた。
きっと本気なのだろう。今の言葉は。根拠など無い。直感でしかないけれども。
高杉がそんな事を口にしたその理由まではわからないし、「何故」を問うだけの気力も無い。
―――それでもただ単純にその言葉を嬉しいと思ってしまった。
私には、そんな言葉を貰う資格も無いのに。薄汚れた私にはそんな言葉は似つかわしくなくて。だからこそ普通の女としての幸せもとうの昔に諦めて。諦めたはずだったのに。
 
「愛してんだよ―――過去のお前ごと」
 
だから俺にしておけ。
その言葉に衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。一体この男はどこまで知っているのか。私の過去をどれほどに知った上での、その言葉なのか。
考えなくてはならないはずの事だと言うのに。
不意に抱き締められた、その力強い腕と身体の温もりに、思考力は一瞬にして奪われる。
―――本当は欲していたのかもしれない。私の何もかもを包みこんでくれる言葉と温もりを。
わけも無く泣きたい気持ちになりながら、私は居心地の良い温もりにその身を委ねてしまった。


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