鏡花水月 −幕間− 夜も更けた頃合にも関わらず、街を取り巻く喧騒。艶のある笑いさざめきの中を、土方は足早に進んでいた。 花街の奥まった一画に、目指す場所はある。一度ならず通りがかった事はあるから迷うことはない。けれども幾度足を向けようとも、その建物内へと足を踏み入れた事は無かった―――が遊女に身をやつして潜り込んでいる、その遊郭には。 それでもこうして躊躇いなく花街をすり抜けて歩を進めていくことができる程度には、その建物までは何度も足を運んでいる。そしてそのたび、何をするでもなく来た道を戻るのだ。 それほどに気になるならば、が他の男に媚を売り抱かれるのが気に入らないというのならば、無理にでも止めさせればいい。実際、二度とするなと言った事もある。 けれどもは艶やかに微笑んで聞き流すのみ。そしてその笑みで夜毎男たちを誑かすのだ。 一体どうすればを止めることができるのか。いっそ好きだと想いを告げ、だから他の男のところには行くなと、そう言ってみたならばはどう反応するだろうか。 幾度も考え、その度に土方はその衝動を抑え込んできた。 何も知らなければ、迷わずそうしていたかもしれない。 けれども土方は知っているのだ。の過去を。土方に拾われるまで、がどのような生活を強いられてきたのかを。 それを知って尚、に愛を告げるだけの気概は土方には持てなかった。 過去ゆえに、は男の、人間の愛などまともに信じられないだろう。それを盾にして告白しないだけだという己の弱さを自覚しないでもなかったが、それでもを怯えさせないために、信を得るために、何も告げずにきたし、何をすることもなかったのだ。 たとえどれだけの男に抱かれようとも、結局はは土方の元に帰ってくる。他の誰のものにもならず―――もちろん土方のものになることもなかったが、それで十分だった。 それが狂いだしたのは、高杉晋助がの前に現れた時か。を失うかと思ったあの時。結果的には失わずに済んだものの、その時に高杉がへと向けていた視線が忘れようにも忘れられずにいる。 背負う過去ゆえだろうか。の纏う空気にはどこか危うげなところがある。触れれば壊れてしまいそうな脆さ、儚さが、男たちを惹き付けて止まないのだろう。そしてあの時の高杉も例に漏れず、魅入ってしまったかのような目をしていた――― 不意に土方は足を止める。そこはもう件の遊郭の前。だが足を止めたのは目的地に着いたからではない。 感じる殺気に、腰に差した刀へと手が伸びる。即座に抜刀できる構えを取りながら、油断なく周囲へと注意を巡らせる。 だが探す必要はなかった。隠れるつもりなど毛頭無かったのだろう。目の前の地味な佇まいの遊郭からゆっくりと出てきたのは、高杉晋助本人に他ならなかった。 しかし身構える土方に対して、高杉はどうという態勢をとることもない。ただその身から発せられる殺気だけは隠そうともしていなかったが。 「そろそろ来る頃合だと思ったぜ」 てめェんところのヤツが嗅ぎ回ってたみてェだからな、と薄く笑った高杉に、承知の上で嗅ぎ回らせていたのかと舌打ちしたくなる。 別段、土方が命じたわけではなかった。の体調を心配した山崎が自身の仕事の片手間にの様子を窺っていたところ、思わぬ事態を知ってしまったのだと言う―――が遊女に扮して男たちから情報を得ていたという事実にも山崎は驚いたが、それよりも驚愕したのは、そのの元へと通いつめている上客の一人が、高杉晋助だという事実だった。 慌てふためいて報告に来た山崎の言葉が終わるのも待たず土方は屯所を飛び出し―――そして今、高杉と相対している。 高杉は一瞬足を止めたものの、すぐに何事もなかったかのように足を進める。その口元に薄い笑みを浮かべ。 次第に縮まる二者間の距離。 「あの女は、俺が貰うぜ」 静寂を破って高杉が発した言葉に土方がいきり立ったのは一瞬、すぐに余裕を取り戻す。 「アイツはテメーの手には負えねェよ」 高杉だけではない。土方にも他の誰にも無理なことだろう。を我がものにすることなど。 だからこその余裕。 けれどもそこには絶対の根拠があるわけではない。 そのことに気付いていなかったことが、土方の手落ちだった。 高杉が足を止めることはない。変わらず嘲るような笑みを口元に浮かべ、一歩一歩と確実に近付き。 「過去に拘って、惚れた女も抱けねェヤツとは違うんだよ、俺は」 「っ!?」 すれ違い様に投げつけられた言葉に、土方は色を失う。 今までに手を出そうとしなかったのは、偏にを傷付けまいとしたためだ。決してその過去に拘っていたつもりはない。 だが。 「テメー……全部知って、それでもアイツを抱きやがったのか!!?」 「あァ、全部知ってるぜ。父親の出世道具として上の連中の体のいい玩具扱いされてた事も、その実の父親からも犯されてたって事もな」 そこまで知っていながら、なぜ平然とを抱けるのか。それとも、更にを傷付けたいとでも言うつもりか。 すれ違い、数歩の距離で高杉は足を止めている。しかしお互いに振り向こうとする気配は微塵もなく、それぞれに真正面を見据えている。 街の喧騒から離れた場所。人通りもほとんど無い静寂。 不意に高杉が嘲るように低く笑った。 「あの女―――にも、惚れた男に抱かれる良さってのを知る権利くらいあるだろうぜ」 もしかして今までのに対する態度は、土方のエゴではなかったのか。 のためと、傷付けまいと、腫れ物に触るかのような扱いをし。監察の仕事にしても、強硬に止めることもできず。 逆にそれは、を傷付けていたのではないか。 ふとそんな思考が土方の脳裏を過ぎる。 最初にを拾った時、その過去を知ってしまった時。どう思っただろうか。 今の高杉と似たようなものだ。 彼女にも幸せになる権利くらいあるだろう―――そう思い、過去を捨てさせ、名前を与え、真選組に引き入れたのではなかったか。 今の自分を見たら、聞いて呆れるしかない。過去を捨てさせようとして、結局土方自身がその過去に拘っているのだ。傷付けまいとするあまりに。 気付けば高杉はいつの間にか姿を消したようであった。 手配中の攘夷浪士と接触しておきながらむざむざと取り逃がすなど、真選組副長の立場を考えれば失態どころの話ではない。 しかし、それどころではなかった。 気付かされた事実。 の幸せのためだというのならば、手放すことも厭わない―――つもりでは、あった。 しかし、何故よりによってあの男なのか。あの男でなくてはならないのか。 だが、と土方は思い直す。 高杉はああ言っていたが、肝心のはどういうつもりで高杉に抱かれているのかまではわからない。それを確かめるまでは、悩むだけ無駄と言うものだ。 何より、仮にも真選組隊士ならば、よりによって高杉晋助などに思いを寄せるなどありはしないだろう。 自身に無理矢理言い聞かせ、ならば相手が他の男だったならば認めたのかと自問する。 答えは否だった。 他の誰のものにもならないということであれば、自分のものにならなくても構わない。だが他の男の手に渡すくらいならば、いっそ――― 浮かんだ考えに土方は自嘲的に笑う。 の幸せのためならば、と今し方思っておきながら、どうやらそれは自身の良心を取り繕うためのものにすぎなかったらしい。実際にはを手放してもよいなどとは、微塵たりとも考えていなかったのだから。 一体はどのような思いを抱いているのか。 見上げた遊郭のどこにがいるのかはわからない。 それでも構わず見続ける土方の胸中から一抹の不安が消えることはなかった。 3← →4 ![]() |