鏡花水月 5



冷たい川風が頬を撫でる。
橋の上、欄干に背を預けて座り込んだ私は、空に浮かぶ月をぼんやりと眺めていた。
何故この場所に来てしまったのだろうか。
―――副長に言われ真選組を出た日。何か悟るものでもあったのだろうか。屯所近くに身を潜めて待っていたらしい高杉に、私は黙ってついていった。
正直、どうでもよかった。この身がどうなろうとも。
連れて行かれた場所は流石に鬼兵隊が集まる場所ではなく、江戸の片隅にある長屋の一室。それでも私の存在は数日も経たずして鬼兵隊の面々に知れ渡ったらしい。
私の存在が彼等に受け入れられるはずも、なかった。
確かに高杉は優しくしてくれたし、愛してもくれた。こんな私にも関わらず。
それでも私は今、こうしてこの場所にいる。副長に初めて出会ったこの場所に。
あの日と同じ場所。同じ月。奇しくも重なったのは偶然か必然か。
月を見上げて、ぼんやりとあの日の事を思い返す。
狭い一室、そして邸内のごく一部が世界の全てだったあの頃。
愛された記憶は無い。母親の記憶も無い。ただ父の客がやって来ては私の身体を弄び、時には複数人が、そして父にすらこの身体を好きに嬲られたあの頃。
それが全てだった私は、私の存在とはそういうものなのだと漠然と理解していた。ただ、窓の外に広がる景色に、一抹の憧れは抱いていたけれども。
私の小さな世界が壊されたのは突然のことだった。
後で知ったことだったが、幕府の役人だった父は、当然と言うべきか、攘夷浪士の襲撃の対象にされたらしい。邸内のあちこちであがる悲鳴、怒号。斬り結ぶ音。
恐怖は感じなかった。どうでもいいとすら、感じることがなかった。
もしかしたら部屋の外へ、憧れるだけだった外の世界へ、今なら行けるかもしれないと。目的など何もない。ただ行ってみたい。それだけだった。
勝手のわからない邸内をがむしゃらに進み、運良く辿りついたのは誰もいない裏口。もちろんその時の私はそこが裏口だということも知らず、誰もいないことを不思議にも思わず。背後の邸内で一際大きくなった喧騒にも構わず。
中空に浮かぶ月に導かれるように、ふらふらと道なりに歩き、疲れて座り込んだところがこの橋―――そして、副長に拾われたのだ。
私を拾い、名前をくれて。
ぶっきらぼうだけれどもどこか優しいその腕に手を引かれ、わけもなく安堵したのを覚えている。月明かりに照らされた横顔に、知らない男だというのに何故か信頼を覚えたことも。
そして日を重ねる内に思ったのだ。私はこの人のために生きようと。それが私が生きる理由。そしてその理由が、私が生きている意味。
けれども今、その理由も意味も失ってしまった。まるであの日に逆戻りしたかのようだ。
もしかしたら逆戻りなどではなく、今までのことは全て夢、私は最初からずっとこの場所にいたのかもしれない。閉じられた世界から脱け出したあの日のまま―――
それはそれで、最期にいい夢が見られたと思えばいい。愛することも愛されることも知らないままでいるよりは、傷付いたとしても、それでも少しは幸せというものを感じられたのだから。
それが自分自身に対する欺瞞にすぎなくても構わない。
不意に手に触れた感触に拾いあげると、手の中にあったのは煙草の吸い殻。偶然ではあるのだろうけれども、何となく副長の顔が頭をよぎった。
最期にもう一度だけあの人の顔を思い出せて良かった。
ふらりと立ち上がり、振り向く。
月を浮かべる夜の川面は、それでも全てを引き込みそうな闇に満ちている。引き込まれたらきっと、戻ることなど叶わないのだろう。
それで構わないと思う。
私の身体も想いも、何もかもを引き込んで隠してくれればいい。永遠に。元々、私のような人間が外の世界に出てしまったのが間違いなのだろうから。
欄干に置いた手に力を込める。
すっと足が浮く。腕で全体重を支えているこの状態。少し上体を傾けるだけで、簡単に私の身体は川面へと引き込まれる。
躊躇う理由は、何も無かった。
ぐらりと揺れる身体。続いて宙に投げ出され、一瞬ふわりとした浮遊感を感じる。この浮遊感が心地好いと言ったのは誰だったろう。そんなどうでもいいことが過ぎったその時だった。
 
っ!!」
 
幻聴なのだろう。私を呼ぶ副長の声が聞こえた気がしたのだけれども。
最期の最後に思うのは、やっぱりあの人のことだったのかと。
少しだけ笑ったその瞬間に、私の身体は水の中へと引き込まれた。
 
 
 
 
 
 
水面に叩き付けられたはずだというのに、不思議と痛みは感じない。
暗闇の中、目を開けているのかいないのか、それすらもわからない。
反射的に閉じた口を息苦しさに開けると、川の水が喉の奥へと流れ込んでくる。やはり不思議と苦痛は感じなかった。麻痺しているのだろうか、感覚が。次第にそれを不思議に思うことすら億劫になっていく。愚鈍な思考。もう、何もかもがどうだっていい。これで解放されるのだから。
朦朧とする意識の下。そのまま暗闇に沈もうとした私の腕が、不意に何かに掴まれる。そのまま引かれるものの、最早私にはどちらが川面で川底かなどわからないし、抵抗する気力もない。
もしかしたら死神に連れられているのだろうか。そんな思考すら過ぎる。
けれども連れていかれた先、真っ先に目に入ったのは白い月明かりだった。どうやら連れてこられた先は川面の方だったらしい。
誰が、何故。などと考えている余裕は無かった。水面から顔を出した途端、無意識に吸い込んだ空気を喉の奥の水が邪魔をして、げほげほとむせる。
その間にも腕は引かれたまま。未だ咳き込みがやまない内に、私の身体は川岸へと引き上げられていた。
 
「何してやがんだ、テメーは!!?」
 
声と同時に左頬に衝撃が走る。相変わらず麻痺しているのか痛みは感じなかったけれども、頬を叩かれたことはわかった。
誰に?
のろのろと思考が動き出す。ようやく肺が正常な機能を取り戻して、脳に酸素が回ってきたようだ。
ゆっくりと視線を巡らせ、月明かりの下、目の前にいる人物を認めた。
 
「副、長……」
 
どうして副長がここに?
いるはずがないのに。私の前にいるはずがないのに。これもまた夢なのだろうか。本当の私は川底にいて、これは私の都合のいい夢……
 
「何してやがるのか聞いてんだよ、俺は!!」
 
今度は両肩を掴まれ前後に揺さぶられる。
それでも私には答えられない。たとえ夢だとしても。
何をしているのかなど、私自身、よくわかっていないのだから。
 
「副長には、関係ありません……」
「そういう問題じゃねェだろ!!」
 
強い語調に驚いたものの、それでもこの人には関係の無いことだと思う。
私をクビにして。真選組から出して。もう何の関わりも義理も無いだろうに。人が好いのだろうか。それにしても放っておいてほしいものだと思う。
黙り込んでいると、また頬を叩かれた。今度は痛みを感じる。ならばこれは現実なのだろうか。
 
「……まさか高杉の野郎、お前を捨てたのか!?」
 
捨てたのはあなただろうに。
真選組を裏切ったとも取れる行為を続けていた私を、局中法度に則ってあっさり捨てたのは、副長の方だというのに。
もちろん、それを恨む気は毛頭無い。この人が真選組の存在よりも私の存在を優先する理由など、どこにもありはしないのだから。
語気を荒げる副長に、せめてこの誤解は解いておかないと高杉に申し訳ないと私は口を開いた。
 
「あの人は関係ありません。私を愛してくれました。私には勿体無いほどに。ですけど……」
 
嬉しかった。
愛されているのだと信じる事ができた時、本当に嬉しいと思えたのだ。
けれども、それはそれだけでしかなかった。
嬉しいと思えても、それが私が生きていくための理由にはなりえなかった。
私が生きている理由。それは副長のため。見返りなど必要としないほどにそれは絶対的なもので、他の何に代えられるものではない。
だって。だって私は―――
 
「それでも私が愛しているのは、貴方なんですよ……?」
 
愛してほしかったわけじゃない。そんなことはとうに諦めていた。いや、諦めてすらいない。最初からありえないことだと、当たり前のように認識していた。
それでもただ、役に立ちたかった。そばにいて必要とされたかった。それだけで十分だと、本気で思っていた。
愛されることの幸福感を知って尚、それは揺るがない思いだったのに。
そばにいることすら叶わないならば、私は何のために生きているというのか。私の居場所など、この世界のどこにも存在しないではないか。
私みたいな女からこんな感情を投げかけられたところで迷惑になるのはわかりきっている。
早く消えたい。この人の前からも、この世界からも。
それなのに腰が抜けたかのように動けない。代わりに溢れ出る感情が止まらない。涙栓が壊れたかのように頬を涙が流れ落ち、しゃくりあげる声も止まらない。
ああ。みっともない。きっと副長も呆れているだろう。子供のように泣きじゃくる私を見て。涙で霞む視界では確かめることはできないけれども。
涙が止まらない顔を隠そうと覆った手が、不意に掴まれる。
どういう意図があったかはわからない。ただ私は反射的にその手を振り払ってしまった。構わないでほしいと、そう言外に伝えたかったのか。
それが伝わったのか伝わっていないのか。どちらにしてもこの副長が私の願いを聞いてくれるはずもない。
 
「っ!? ぃやっ…!!?」
 
今度は簡単には振り払えないほどの力で掴まれた手首。
制止する間もなく重ねられた口唇。重ねられただけの口吻け。ただそれだけだというのにも関わらず、身体が歓喜に震える。未練を捨てきれない不甲斐無さが情けなくて仕方がない。
 
―――同情なんか、しないでください」
 
未練がましい自分に気付かされるだけだから。
震える口唇でようやくそれだけを伝える。
離された口唇はまだ吐息が触れるほどの距離。
惨めな思いに視線を合わせることなどできず、私は顔を俯けた。
 
「同情でこんなことができる人間じゃねェよ、俺は」
 
顎に手を添えられ上向かせられると、再び降りてくる口唇。
同情でないと言うのなら、一体どういうつもりなのだろう。
深まる口吻けは、抱かれたあの時とは打って変わって優しいもので。その優しさを貪欲に欲してはそれに溺れて、今度は思考が麻痺していく。
何も考えられない。考えたくない。
 
―――だったら大人しく俺のそばにいろよ」
 
突然、耳元で告げられた言葉。
いつの間にか終わっていた口吻けの余韻なのか、未だ働かない思考。
何を言われたのかもよくわからない。だから、その言葉の裏側にあるのだろう真意を推し量ることもできない。
ただ、有無を言わさぬほどに強く抱きしめられた力に、その言葉を拒否する権利など私には無いのだろうと悟る。
力強い腕の中。無言の促しに、私はこくりと小さく頷いたのだった。


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