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何年かぶりに、大学の時やっていたアメリカンフットボールクラブのOB会に顔を出した。
今回は、遠くの仲間もやってきて、懐かしかった。

OB会の後は、4年が卒業し新体制になる現役選手の激励会。
現役選手の多いことも驚いたけれど、コーチも多い、我々のやってた頃とは隔世の感。
試合グランドが、全部芝だって言うのさえ驚きだ。
私が、芝のグランドでやったのは、全試合中一度だけ、鶴舞競技場の砂グランドなんていい方、名院のグランドは、フィールドの中まで草だらけで、草と草を繋いで足を引っ掛けるわなが作れたし、愛院のグランドで擦り傷作ると、ひどく化膿してリンパ腺まで腫れた。

高校のとき帰宅部の私が、26年前、フットボールをやろうと思ったのは、まだ出来たての同好会で、練習が楽そうだったから。
何しろ、人数が足りず、試合をした事のないチーム。

ところが、その目算は、入部するなり崩れた、この年の入部者が多くて、メンバーが足りた、試合が出来る、主将で創部者のオオタさんは俄然やる気。
というわけで、ゲンショー以外初心者の新入部員は、ほんの3ヶ月でレギュラー、試合をまともに見たことないのがいきなり試合。

中学のときはバレーボールをやってた。
狭いコートに、チームは6人、敵と味方はネットで隔てられる。
ところが、今度は広いグランドにチームは11人、キックオフの時はみんな離れ離れ、それが、ボールがけり込まれると、ボールだけならともかく、相手チームまで、血相変えて突進してくる、こんな事やった事ない。
デビューはディフェンス、となりのオオタさんに「何すればいいんですか。」と聞くと「とにかく、突っ込め。」と今思えばごもっともな指示。

その秋の二部リーグに出場して全敗した。
試合では、相手選手に「それでもフットボールのつもりか」といわれたこともあった。
そんなこといわれたって、こっちもフットボールだか、なんなんだか、分かるかバカヤロウ。

秋の惨敗の反省を踏まえ、先輩が、愛院大OBにコーチをお願いした。
我々より先に、愛院からコーチを招いた名城が、めきめき力をつけていたので、負けてはおられぬ、と言うわけだけど、名城のコーチは、指導の厳しい鬼コーチと言う評判だった。
ウチのコーチはどんなだろう。
みんな雪辱に燃える中、スパルタはヤダナと思ってる奴もいた。

コーチのホリさんの第一声は、おまえら、好きでフットボールやってんだから、練習だって声出して、楽しくやれ。仏のコーチだった。
ホリさんの指導で、練習方法のバリエーションが増え、やっと自分が何をやってるのか分かってきた。
コーチに教えてもらった事の中には、汚いプレーの選手用の裏技と言うのもあった。
「あんまりしつこい奴がいたら、俺に言え、ワンプレー捨てて、全員でつぶす。」
もちろん、そんな事、実際にした事はない。
でも、経験の少ない我々が、敵にびびらないで試合にのぞめた。

一年の間に、新入部員がさらに増え、その中にはエイテン、ヨシアキみたいに、高校でやってた奴もいて、部員の量、質ともに向上。
春の新入部員も豊作で、特に、ゲン、タナハシが加わって、うちのラインは、二部では大型(でインターナショナルな雰囲気)になると期待出来た。

この年、記念すべき最初の一勝をどのゲームで挙げたのか、覚えていない、ひょっとすると、そのとき私はいなかった。
楽でいいやと思って入ったクラブは、予想に反し、日曜も練習のバリバリ体育会ノリに変わってしまった。
ついていけなくなった私は、初夏の頃、クラブを辞めた。
それから、秋の学園祭までは、ゼミの出し物の劇で役を貰って、楽しくすごしていた。
それが、学祭が終わって、勉強のあんまり出来ない学生は、俄然する事がなくなった。学校がつまらない、これから二年と半年、フラフラと学生やってくのは耐えられない。もう一度戻りたかった。
ほんとに勝手な後輩を、キャプテンのオグリさんは、受け入れてくれ、チームのみんなにもお許しを得て、おかげで今も、OB面していられる。ありがとうございます。

秋のリーグは何勝かあげ、手ごたえをつかんだ。
次の年の目標はリーグ優勝、一部昇格。
春の新入部員も若干名あり、戦力に申し分は無い。

あのころうちのチームは、どちらかと言うと、ディフェンスで得点を抑え、QBゴシマとツヨシのリバース炸裂、最小得点で逃げ切るパターン。
他所では、何試合に一度のスペシャルプレーがウチの切り札。
テレビでやってるフットボールとは、ちょっと違うものだったかもしれない。

だいたいこの頃、二部リーグではもちろん一部だって、キッキングゲームなんてものは無かった。
フィールドゴールを狙うのは、トライフォーより確率の低い賭け、そんなことするチームは、見栄っ張りの馬鹿と思われる。
キックで3点狙うチームなんて見たこと無い。
攻撃の選択肢は少なかった。
激励会で、キッキングコーチの紹介があったのには心底驚いた。

翌年の秋、優勝を決めた試合の相手がどこだったのか、覚えていない。
入れ替え戦は鶴舞グランド、相手はラインに100kgを越す双子の兄弟を揃えた大型チーム。
雨中の試合、敵、味方ともドロドロ、埴輪の戦。
前半を0対0で折り返し帰ってきた埴輪達をコーチが、「よくふんばった、これで勝てる。」と迎えてくれる。
「あいつら、まだフットボールを知らん、絶対対応できん。」
この入れ替え戦のため、コーチはスペシャルプレーを用意していた。

後半戦、我々のオフェンス。ラインメンは腕を左右一杯に伸ばし、お互いの間隔を大きく開け、グランドの巾一杯に広がるようなスクリンメージを作った。
敵チームは混乱し、コーチの思惑通り、我々への対応を誤った。
相手ディフェンスは、こちらの選手の対面にポジションを取り、同じようにラインの間隔を広げた。
スプリットライン、作戦はそれだけ、あとはバックスが、最初から大きく開いたギャップを最短で駆け抜ける。
高校のとき11秒フラットで、インターハイに出たタケウチにうしろから追いつく奴はいない。
ワンタッチダウンを守りきり、私たちは一部昇格を決めた。

卒業の年の春、有望な新人を多数迎え、その後のチームも安泰と思われた。
あとひとつ、やり残していたのは、上智戦の初勝利。
ベッショの加入で、試合後の交流会は、既に圧倒していたけど、やっぱり勝って騒がなきゃ腹からは楽しめない。
試合はホーム、私たちの年代には最後のチャンス。

この試合、初めてチアリダーの応援が入った。
団長のナカムラには悪いけど、援団の野太い声より、我々の試合には似合う。
私は結構うれしかったけど、QBのゴシマだけは、ハドルの時にも盛り上がる声援に、「うるさくて、指示が通らない。」とご機嫌が悪かった。

「こっちのプレーやって下さい、完全にコントロールできます。」ゲンの言葉どおり我々のラインは攻守とも、優勢。
その夜は、心のそこから楽しめる交流会になった。
ただ、残念な事に、前々日からの他所のクラブの応援とこの試合の気合で、この夜はバンザイ叫んでも、のどが潰れて、ほとんど声が出なかった。

あのころ、フットボールをやっていた私は幸運だ。
東海リーグは、それ自体まだ歴史も浅く、どのチームも試行錯誤。
好きで始めた奴ばかりで、スポーツエリート達のやる競技ではない。
才能の差なんてものは無く(体重差はあったかもしれない)、いいコーチに恵まれ、練習に励めば、勝てなかった相手に勝てる。
井の中の蛙であっても、一部に上がり、上智に勝って、花を咲かせた気分の充実した4年間だった。

激励会の最後、OBからの一言を求められ、壇上で火を喰って盛り上がってしまった我々は、リーグ優勝を誓う若いOB、選手の顰蹙を買ってしまったろうか。

卒業して二十何年にもなると、あのころことは、映画みたいに鮮明ではっきりとした物語ではない。
思い出は、断片的なシーン。
おじさんたちには、試合の時のシーンも、練習のときの一コマも、そしてコンパや学食での馬鹿話のシーンでさえ、全てが同じように懐かしく、いとおしい。
火を喰って盛り上がるのは、若く、無邪気だったあのころの再現。
今の私たちと過去を繋ぐ、唯一再現できるシーン、だから、私たちにとって再会のもうほとんど儀式。
きっと来年も、ベッショは火を喰うけど許して欲しい。

2003/2/22

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