大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

飛騨方言・まわし、の用法に関する一考察

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別稿にまわしの語源について記載しました。 用法について気が付いている事をお披露目しましょう。

筆者が問題としたいのは、古語名詞・まはし、が方言として 語り継がれているのに、なぜ古語動詞・まはす、が 廃れてしまったのかという事です。 つまり、まわし、の用法としては、 まわしをする、という言い方しかなく、 全国各地の方言サイトをみても、名詞・まわし、はありますが、 動詞・まわす、は皆無に近いのです。 ただし誤植のサイトはあります。 どこかの小学校の先生へ、方言サイトの作りっぱなしは止めましょう。 児童の原稿はキチンと校閲してくださいな。 校正恐るべし。 つまりは誤字が検索ロボットに知られるや、登録され、 ありもしない言い回しがネットの世界では新規の日本語になるのです。

さて現代語でも例えば、タクシーを一台まわす、と言います。 一台手配する、という意味では、古語動詞・まはす、と 同様の意味で用いられるのでしょうか。 否、むしろ、タクシーを一台差し向ける、つまり文字通り、 タクシーを指定の場所に巡回させる、という意味ですから、 この用法とて準備・用意・支度という意味はありません。

話かわって飛騨方言には、まわし、と同じ意味で、 やわい、があります。そしてその動詞形は、やわう、です。 やわいをする、と言っても良いし、単に、やわう、と言ってもよいのです。 但し、やわいする、というサ変動詞は 飛騨方言として間違いではないにせよ一般的ではないでしょう。

それにしても、用言やわう・体言やわい、が 共に方言として語り継がれているのに、 体言まわし、がもてはやされ、用言まわす、が 死語化してしまった謎が私にはいまひとつよく判らないのですが。 考えられる事はひとつ。 人や物を思いのままにあやつる、資金を運用する、等々の 意味がなんとはなく負の意味があるから、という事でしょうか。 良い事を準備する事が、やわう、であるとすれば、 元々は後ろめたい事を準備する事が、まわす、という事だったのでしょうね。

しかしながら抽象化された体言・概念からは後ろめたい意味がなくなり、 結構人気が出てきた言葉という事なのですよねえ。 また、お相撲さんのまわしと同音である事も人気の理由のひとつ である事は間違いない。

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