夕飯の前に本屋さんで本を買ってきました。塩田丸男著・食べる日本語、講談社α新書。目次にら抜き言葉の章があり、おうこれは読まなくっちゃと。
同書のら抜き言葉の章のおさわりですが、ら抜き言葉が本格的に国語審議会に諮問されたのが平成五年の第二十期。二年後の平成七年に審議会は食べれる、などのら抜き言葉を審議会として認めない、との最終案を発表したのでした。ただし塩田丸男氏は同章で続く数ページの氏の論考を交えて訴えます。食べれる、という日本語は機能的であり、ら抜き言葉を支持する、と。
ところで筆者も飛騨方言として幼い頃から使用していた事を思い出します。宮中晩餐会などの特別にあらたまった場合でなければ佐七は現在でもつい使用するでしょうね。
余談はさておき、飛騨方言では、共通語・食べられる(=食べる事ができる・可能)、つまりら抜き言葉・食べれる、を更にはたばるとも言うのです。驚く事に、たばる、という言葉について、ただ今ネット検索しましたらヒットする事たったの数十件でした。兎にも角にも珍しい言葉です。これらのネット情報発信は飛騨以外のどちらのお国言葉なのか、興味は尽きません。
さて、下一段活用・食べる、を五段活用すれば可能動詞になる、という文法は飛騨方言の十八番(おはこ、得意技)なのでしょうか。ここで筆者の体験を思い出します。筆者とて仕事柄、全国の方とお話ししますが、そのお一人で九州男児のご年配の方が、いつも、出らん、見らん、などとお話しなさるのです。下一・上一の五段化です。奇異に聞こえるので佐七は生涯忘れないでしょう。可能動詞でお使いであろう事も書かずもがな。
筆者が飛騨方言で彼に、たばる(=食べれる)・たばらん(=食べれない)、と話しかけても十分に通ずるのでしょうね。飛騨と九州では文法がどうも共通のようなので、当たり前といえば当たり前、とふっと思ったのでした。そして話は、塩田丸男著・食べる日本語、に戻ります。氏は、国語審議会よ、これ以上駄々をこねるのは止めてくれ、ら抜き言葉・食べれる、を認めて欲しいと訴えておられますが、ついでに佐七の主張もひとつ、下一の五段活用もついでに日本語として認めて欲しい。筆者にとって、食べるの可能動詞はズバリ、たばる、でよか(九州弁?)。
結論ですが、下一の五段活用による可能動詞化は実に機能的、合理的、美的、単純、明快、明瞭、簡単、省エネ発声、であり世紀の珍発明なのです。飛騨の皆様へ、このような飛騨方言を全国的にはやらかいでまってえな、新しい二十一世紀の国語を作らまいかな。特に清水ミチコさん、松田まどかさん、たのむぜな。
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