大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

飛騨方言・てきない、の文学史的考察

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飛騨方言で体がえらい、疲れるという事を、てきない、というのですが、 語源はたいぎなり、です。

古語辞典にあたりますとたちどころに、江戸時代に突然に生まれた言葉という事が わかりますのでお披露目します。 当サイトの別稿・文学史的考察 の通りですが、再掲します。
一代男・井原西鶴     たいぎなり(−>てきない) 1642-93
宵庚申(よひがうしん)・上 たいぎなり−>てきない  1722(享保7年)初演
近松 
雑兵物語・松平信興    たいぎなり(−>てきない) 1728(享保13年)、二巻
浄瑠璃・朝顔       たいぎなり(−>てきない)  1832(天保三年) 
てきない、という言葉は近松の宵庚申・上に見られます。 "喉につまってぎっちぎっち、てきないこんでごわりまする"の通りです。 また宵庚申は、八百屋の養子・半兵衛が嫁・千代と姑の不和のために宵庚申の夜に 心中した実話を脚色したものです。 つまりは飛騨方言・てきない、は1722(享保7年)初演当時すでに江戸庶民の言葉、 つまりは当時の共通語であった事がわかります。 広辞苑にあります中間・小物の言葉という記載は言葉が足りないのみならず、 むしろ間違った記載に近いのではないかと筆者は考えます。 さて当時といえば高山は金沢藩主前田綱紀(つなのり)が高山城在番であったものの 元禄8年(1695)1月12日、 幕府から高山城破却の命令が出され、 同年4月22日から取り壊しを開始、6月18日には全てを終えて帰藩しました。 そして飛騨の天領時代が始まります。

賢明な読者の方はもうお気づきですね、天領となった飛騨に江戸の言葉・てきない、が 伝わり、あっというまに飛騨全土に広まったのです。中部各県の方言とはなっていますが、 同じ事情ではなかったと思います。 外様大名の国(失礼!)にはない言葉・てきない、という事が容易に理解できます。

ただし、飛騨方言・てきない、の語源・たいぎなりは、後の世の文学史に尚も見られます。 雑兵物語(享保13年)、浄瑠璃・朝顔(天保三年)の例をあげましょう。 そしてたった今ですが、"大儀です"、"大儀だ"、"大儀だった"などを キーワードにネット検束しますとやはりいくつかヒットします。 死語ではありません。 江戸時代の江戸語・てきない、は飛騨始め中部各地の方言として今も残り、 大儀なり、は今なお日本語として残っているという事なのです、実は。

以上はあれこれ小一時間ほどネット検索した情報を基にした 平凡な議論といえますが、私・佐七は実はこれが言いたい、 外様大名の国に、てきない、という方言が ないという事で妙に納得してしまいました。勿論、限られた情報から の下種の佐七の勘ぐりです。完全に外れている可能性はなきにしもあらず、 もしぞうだったら薩長土肥の皆様、ほんとうに御免なさい。 しゃみしゃっきり。

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