大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

蹴ると死ぬの二つの動詞の不思議な関係

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手元に一冊の文庫本があります。日本語びいき、中公新書(ISBN978-4-12-206624-3 C11950)、著者は清水由美、研究社和英辞典の編集にもかかわっている言語学・英語の専門家、お茶の水女子大学院卒、千葉大講師、外国人留学生に日本語を教える教師、との肩書です。

実は彼女は私の出身高校・岐阜県立斐太高校の五年後輩で、生まれも育ちも岐阜県高山市、飛騨方言ネイティブでもあり、同書の一章に、書きよる(書いている)、というような飛騨方言の表現についても触れていらっしゃいます。ただし、このようなアスペクト表現についてはもっと詳細な記述の方言学の専門書がありますので、ここでは触れません。それでもこの一節がなければ彼女が高校の後輩である事も気づかなかったわけで、実にありがたい記載でした。面識はありませんし、おそらく彼女も当サイトの存在にはお気づきではないのでしょう。いずれお会いできるチャンスでもないかなと思うと、心がお花畑状態になります。

本の内容は平易に誰でも理解できるように書き砕いてあり、また、ナウい、と、ナウな、この二つの言い方で、よりナウいのはどちらの言い方でしょう、というようなトピックスをはじめ、爆笑テーマが満載です。日本語に興味ある方、斐校の生徒さんがた、国語教員のかた等にはお勧め。

前置きが長くなりすぎました。この文庫本のトピックスのひとつが、たったひとつしか存在しない「ナ行五段活用」とは。答えは、死ぬ、です。また最近ですが、 飛騨方言の下一段動詞の五段化可能表現では、・・ 古典文法では下一段動詞は、蹴る、の一語のみ。現代口語文法では数百とも、無数の下一段動詞があるのに。生徒が疑問に思うのも当然、これに対して明確に答えられれる国語教員こそが正に国語教員の鏡・・とお書きしました。つまりは現代国語(口語)文法では「ナ行五段活用」動詞は、死ぬ、のひとつしか無いし、古文文法では下一段動詞は、蹴る、の一語のみ、つまりはこれが、蹴ると死ぬの二つの動詞の不思議な関係です。

もったいぶらずに結論を書きましょう。死ぬ、は今も昔もたった独りぼっちの動詞です。つまりは古文文法ではナ行変格活用でたった一個の動詞、なにせ変格ですから。厳密には自ナ変には、往ぬの動詞があったにせよ、明治時代あたりから使われなくなり、死ぬが五段活用に変化してしまい、唯一のナ行五段になったからというのが答え。

他方では、下一段は古文では、蹴る、の一個だけなのに現代国語ではア行からラ行までのオンパレードです。これも懸命な読者にはお書きするまでもない事ですが敢えて、口語の下一段活用は、すべて文語の下二段活用に由来しています。つまりは下二段動詞が下一段で独りぼっちの動詞・蹴る、の場所へ雪崩れ(なだれ)込んで来たのです。途端ににぎやかになった下一村、蹴る君はもう寂しがらずに済みました。

えっ、それはいつの話ですって。明治でしょうね。言海に下二段動詞の記載があり、つまりは全て現役の動詞だったのですから。つまり明治時代に文語から口語への国語の大変革があったから、というのが、蹴ると死ぬの二つの動詞の不思議な関係があるのは何故、に対する解答なのでしょう。

なお、私は国語学者でもなんでもありません。単なるアマチュア飛騨方言愛好家です。専門は医学です。ですから、以上の私の解釈が若し間違っていたら、ごめんなさい。

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