大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
みえる(=おみえになる)-3 |
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私:いやあ、お恥ずかしい話だが、今日は例によって散歩の途中で今までの大変な勘違いに気付いた。 君:ほほほ、貴方は昨日に山口県で観光バスに乗っていて、生まれも育ちも山口県のガイドさんが「みえる」尊敬表現を発するや、これが中部地方の地域共通語であるにせよ、実は全国共通方言、つまりは一昔前までは当たり前だった中央の尊敬表現であった事に気づいた、という事ね。 私:正にその通り。「みえる」の語源が、「みる」+受身・可能・尊敬・自発の助動詞「る」、であると考える事自体が間違い。自ヤ下二「みゆ見」そのものが「来る」を意味する尊敬語だ。源氏、蜻蛉、等、文例はいくらでもある。ええい、こん畜生、忌々しい、ぐやじい。どうして今までこんな素朴な事に気づかなかったのか。蛇足ながら、「みゆ」は「みる見」の未然形「み見」に自発の助動詞「ゆ」が付いたもの。「み見」の語源は「め目」。 君:ほほほ、本当は自力で問題が解けて嬉しくて仕方ないのよね。「みゆ」そのものが尊敬語だから「みゆる文語・みえる口語」も必然的に尊敬語。 私:つまりは「あり・をり・はべり・いまそかり」。 君:おっと間違えないで。「はべり」は謙譲語よ。どうかしちゃったんじゃないの? 私:そうだね。お調子者だ、僕は。でも大発見、「みゆ」「いまそかり」「いますがり」は動詞そのものが尊敬語だ。従って尊敬の助動詞は要らないんだ。イェーイ 君:ほほほ、気付くのが随分遅かったわね。それにその喜びよう、なにか理由がありそうね。 私:「みえる」尊敬表現が「ギア方言(岐阜・愛知共通方言)」の特徴である事を最初に説いたのが元富山大学教授・故都築通年雄先生だな。すっかり陶酔していた。 君:唯一の飛騨出身の方言学専門家ね。 私:そう。東条操の方言区画論に携わったおかた。全国でフィールドワークをなさった。佐七は都築教の信者だ。 君:「みえる」尊敬方言は岐阜・愛知では極、普通に話されるのに、他の地方では廃れてしまったという事ね。 私:要はそういう事。自下二「みゆ」は口語自下一「みえる」に変化した。意味は「来る」の尊敬語。下二が消滅し下一になった現象は日本語の歴史そのもの。ただし、変化前の下二動詞に尊敬の意味がなければ対応する変化後の下一動詞に忽然と尊敬の意味が生まれるわけがない。「もゆ燃・もえる燃」の例を出すまでもないだろう。「みゆ・みえる」の特殊性というわけだ。 君:つまりね、「先生がみえました、まだどなたもみえません」でも日本語の尊敬語として少しもおかしくない、という事なのよ。好きなだけお使いなさいな。但し、命令形は使えないわ。つまり「使ってみえよ、使ってみえろ」はナンセンス。ほほほ |
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