大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

しょわない(世話が無い)

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私:毎日飽きもせず記事を書いて、昨晩は飛騨方言「せわしない(せわしい)」を書いている途中、ふと、そうだ明日はこれを書こうを思い立った事があるんだよ。
彼:それが表題ですね。
私:うん。「セワシナイ」の意味は「忙しない」だ。「世話しない」ではない。
彼:ふふふ、そしてふと「しょわない」が思い浮かんだ。意味は「簡単だ・容易だ」ですね。俗語表現「世話ない」でも共通語として十分に通じますね。
私:江戸っ子のような言い方「せわねぇ」でも通じるだろうね。
彼:ところで音韻についての考察とは?
私:では、まずそのあたりから。「げばす」の語源が「かけはずす」である事に気づくのは並大抵の事ではない。日葡辞書という武器、つまりは近世畿内方言のポルトガル語表記という、いわば高等テクニックが必要だ。ところが共通語「せわない」が飛騨方言で「しょわない」である事を理解するのにはこれといった武器は必要ない。それでも音韻学の書籍があればそれに越した事はないが。
彼:「せ」が「しょ」にちょいと訛っただけの事ですものね。
私:でも、チコちゃんに叱られる風に、なんでなまったの?と私があなたに質問すると・・。
彼:・・恐怖のBGMが流れるや、僕のカラー写真が白黒写真になる。
私:その通り。こういう、一見つまらなそうに見える事でも音韻学的には結構、面白い。ところで、ふふふ、たった今、気付いたぞ。ちょいと脱線しよう。近世語から近代語に移行する時にナリ活用からタリ活用に突然に変化したのか。いやあ、これは今日まで気づかなかったな。
彼:何をわけのわからない事をおっしゃるのですか。もう少し、具体的に説明してくださいませんか。
私:ははは、ごめんごめん。共通語でも「きさまの知った事か。おおきなお世話だ。」なんていうでしょ。「世話だ」の品詞名は?
彼:体言+指定の助動詞「だ」ですね。
私:その通り。時代はいつから?
彼:・・あまり考えた事がありません。
私:結論を急ごう。江戸時代、近世語だ。それ以前、つまりは江戸前期以前は「世話だ」はなんて言っていたのかな?
彼:それも思い浮かびません。
私:「世話なり」だ。時代は室町・江戸。こうなってくると体言+指定の助動詞ではなく形動ナリになる。それよりもっと古い、奈良・平安あたりだと、何ていってたっけ?
彼:それこそ形動ナリ・形動タリの時代ですね。やはり「せわなり」だったのでしょう。
私:その通り。形動タリ・形動ナリに少しふれた。
彼:あの、いいでしょうか。脱線していません?音韻の話、飛騨方言の訛りの話ですよ。
私:ああ、失礼。要約すると江戸時代まで形動ナリ「せわなり」、これが口語では「せわだ」になるが、文語ではナリタリがあったものの、口語では文語タリ「たら・たり・と・たり・たる・たれ・たれ」の流れを汲む「だろ・だっ・で・に・だ・な・なら」という事で、近代語では口語の世界においてはナリ活用は消滅した。だから江戸時代までの形動ナリ「せわなり」が形動タリの子孫系「せわだ」になってしまった。言いたい事はひとつ、近世語では「せわなり・せわがなし」、口語では「せわだ・せわがない」。中央で格助詞「が」が消滅したのはいつだろう。飛騨方言では「しょわない」とは言うが「しょわがない」とは言いません。
彼:現代語で俗語「せわない」があり、むしろ「せわがない」はあまり使われないのではないでしょうか。「せわがない」から「せわない」の変化は近代において、という事のような気がしますが。
私:僕もそう思う。その証拠を示すには書誌学、つまりはそのように書かれている書物を特定し、年代測定が必要だが、僕には無理。そこで、少しばかり荒唐無稽な推論になるが、明治あたりに中央で「せわない」という俗語が出来たのちに飛騨方言で「しょわない」というようになったのではなかろうか。
彼:可能性はありますね。
私:残念ながらそこまでしかわからない。以上が前置きだ。さあ、音韻学の本論にはいろう。
彼:なっ、なんですって。
私:だから「せ」が「しょ」になるのは何故?
彼:簡単です。言いやすいからです。
私:正解だ。答えは言いやすいから。でもキチンと説明できるかい?文字で「せわない」と表現してしまうと気づかないかもしれないが、実は「せ」と「わ」の間に小さいウ「ぅ」が入る。「せ」は大きく口を開く音韻、「わ」も大きく口を開く音韻だが実はすぼめた口を開く時に出る音韻なので、「せわ」と発音する時の唇は、開く・すぼめる・開くの三段階「せぅわ」、という事で結構、忙しい。その一方、「しょ」は唇をすぼめて発音できる。つまり「しょわ」の発音時の唇の動きは、すぼめる・開くの二段階ですむ。
彼:なるほど。
私:それに「せ」も「わ」も共に有声音。だから実は「せわ」は言いにくい音韻。その一方、「しょ」は無声音、だから「しょわ」は(無声音+)有声音という事で、非常に言いやすい。
彼:有声音・無声音とはなんでしょう。
私:簡単にひと言。ヒソヒソ声が無声音。要はかすれた声。厳密には声門が開きっぱなしの音韻。その一方、有声音は声帯を激しく運動させる事によって生ずる音韻。これ以上の説明、ヒソヒソ声のほうが有声音の発声より楽な言い方である事に説明は要らないだろう。
彼:なるほど音韻学も面白いですね。
私:ちょいと訛ってるだけの事、つまらない話じゃないか、と思った方よ、さようなら。今日の結論だが、「せわ」は3モーラに近いのに加え有声音の重畳で声帯は大忙し、その一方で「しょわ」は1モーラに近く有声音は一個だけなので格段に言いやすい。方言の音韻学の大原則、言葉は必ず言いやすい方向へと変化していく。
彼:いいんですか、ハイ・さようならで。言葉をお選びになったほうが。
私:僕は自分が楽しいから書いている。それだけの事。それに読者の皆様の人数が問題なのではない。サイト開設以来、常に書き続けてきた言葉がある。私の記事が面白いとお感じのあなたのワンクリックがある限り、私は書き続けます。おかげさまでサイト開設以来、クリックが無かった日は一度もない。
彼:前置きがやけに長くて、本論は手短でしたね。ははは、しょわないあんさまや。
私:そういう事。長々と駄文を最後までお読みくださいまして本当にありがとうございます。そしゃ。
彼:いいえ、こちらこそ。そしゃ。

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