大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
かつえる(=飢える) |
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私:当サイトのテーマは飛騨方言だが、別名が、ひたすら古典のお勉強。 君:理系男子の古典との接点といえば受験の国語。高校時代が懐かしいのね。 私:悲しいかな、今の僕には高校時代の僕以上の議論は不可能だろう。言い換えれば、当サイトは小学生でもわかる飛騨方言の勉強という訳だ。前置きはさておき、「かつえる」は全国共通方言。飛騨は勿論だが、東北から九州まで、各地の方言になっている。語源は自ヤ下二「かつゆ餓・飢」。 君:中世語ね。 私:その通り。室町以前の文献は無い。中世以降も用法は連用形に集中し、その表記はハ行・ヤ行・ワ行に渡る。ここからが方言学、このように複数行に渡る複雑怪奇な音韻はハ行転呼とも開合(の区別)とも言い難い音韻変化だ。卒論のテーマに持ってこいだろう。 君:自ワ下二「うう飢」との関係はどうかしら。 私:「うう飢」は万葉集にあるから和語動詞。・・・・我よりも貧しき人の父母は飢ゑこゆらむ妻子子どもは請ひて泣くらむ(892)・・・・意味は変わらず、現代語・自ラ下一「飢える」に至る。自ヤ下二「かつゆ餓・飢」は中世語として生まれ、近代語では廃れ、今では自ラ下一「かつえる」の形で、飛騨はじめ各地の方言に残っている。問題は「かつゆ」の品詞分解だが、動サ変「かつす渇(のどがかわく)」の語幹「かつ渇」が接頭語として自ワ下二「うう飢」にくっついたのじゃないかな。つまりは僕の発想は「喉が渇くのみならず、飢えにも苦しむ」というような意味で生まれた言葉。 君:室町時代に生まれたという事は、世が乱れたからという事かしらね。 私:ああ、多分ね。まあ、万葉集の歌にも泣けるけれどね。飛騨方言では飢え死にの事を「かつえ死に」とも言う。山の木の実が少なく、小動物がフラフラと里に出てきて道端に死んでいる事がある。我が家の玄関先でタヌキが死んでいた事がある。弔った後は高山市のはく製業者にお願いし、実は、そのタヌキ君は笠をさし徳利を持ち立った姿で我が家の玄関に飾られている。このスタイルは元々は信楽焼のタヌキの置物からだそうで、他を抜く、という事で商売繁盛の意味もあるそうだ。 君:自ワ下二「うう飢」が万葉の時代から生き延びた和語動詞なのに、自ヤ下二「かつゆ餓・飢」の命はあっけなかったわね。ほほほ |
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