大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法 |
「は」と「が」の使い分け |
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私:先ほどは大野晋先生の「古典文法質問箱(角川文庫ソフィア)」を読んだ。内容を一つだけ紹介しよう。 君:主語の「は」と「が」ね。 私:陳腐な文法議題と言ってもいいかな。僕自身がこのサイトに書いた。例えば、1 2、 やはり数学の集合論で考えるのが一番スッキリで内容は色褪せていないと思うが、大野晋先生もなかなかのお方、やはりスッキリとまとめておられる。 君:では、それを更にスッキリと、つまりは一言で説明してね。 私:ほいきた。日本語は語順が極めて厳格である。この一言。 君:反って判りにくいわ。少しだけ詳しく、例文も入れてね。 私:お安い御用だ。さて「雨が降った」と「雨は降った」に大した違いは無いが、「本はどれ」とは言うが「本がどれ」とは言わないし、「どれが本」とは言うが「どれは本」とは言わない。これに尽きる。 君:なるほどそういう意味ね。「本はどれ」と「どれが本」は正しいけれど、「本がどれ」と「どれは本」が間違いである事は係助詞「は」の前後にくるものには規則があり、格助詞「が」も同様で前後に来るものには規則がある、つまりは日本語と言うよりは助詞の前後には厳格な語順があるという事よね。 私:うん。これは僕が書いた数学の集合論の例えともピタリと一致する。つまりは「全体集合は部分集合を内包する」と一言で表す事ができる。大野先生は日本語、つまりは言葉は語順であり、係助詞「は」は上が既知情報にて下が未知情報、その逆に、格助詞「が」は上が未知情報にて下が既知情報と書いておられる。 君:あなたの説く数学集合論と未知情報・既知情報との関係も明白でなくてはいけないわよ。 私:そりゃそうさ。つまりは未知情報の集合(つまり全体集合)は既知情報の集合(つまり部分集合)を内包するという事だ。全体は既知と未知から成る。全てが既知でない全体は結局はこれまた未知という事。中学生ですら理解できる理屈だ。既知がゼロの例文は「なにがなんだかわからない」、未知がゼロの例文は「1たす1は2」。 君:確かにね。話言葉を聞いた瞬間に日本語の文法に合っているか、あるいは間違っているか、判断ができるのだから、その通りだと思うわ。 私:つまりは国語頭も数学頭も無い、要は脳内で情報処理しているのは記号論理学。今日はダラダラと書かずに、ここでおしまい。おまけだが「我が国」「君が代」というが「我は国」「君は代」といわないのも同じ理屈。 君:そうなんやさ。そしゃな。ほほほ |
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