”かかる”が動詞の連用形に接続すると自動詞の表現になり(雪が消えかかる)、
一方”かける”が動詞の連用形に接続すると他動詞的な表現になります(火を消しかける)。
古語辞典をみますと”かかる”は新古今集の文例が、
”かける”は猿蓑、一代女の文例があり古語の時代からの文法である事がわかります。
ところで飛騨方言では、雪が消えかける、という自動詞的表現でもセンスにあいます。
勿論、雪が消えかける(=自動詞)は多くの日本人にとってもセンスにあうはずですが、
多少の違和感を覚えむしろ雪が消えかかる(=自動詞)という方もありましょう。
さて、雪が消しかける、と若し言えば誤表現でしょうか。日本語としてはアウトでしょう。
がしかし飛騨方言では雪が消え始めているという自動詞表現でセンスにあうようです。
内省ではなく会話文で実際にみられたと書き添えましょう。
またこれにおおいに関連して、実は飛騨方言には きやす(=消す)
という俚言他動詞があり飛騨方言では雪がきえる(=自動詞)、火をきやす(=他動詞)、
と使い分けますので、月並みな議論としてはここで終了です。
ところが不肖・佐七の飛騨方言講義はまだ続きます。
内省ではなく実は最近、会話文で実際にみられた飛騨方言に
雪がきやしかける(=自動詞)
というのがありました。"雪が〜"に続く用言である以上、自動詞である事はいわずもがな、
とすれば当然ながら"きやし"も、"かける"も共に飛騨方言としてすら
ミスセン( テン )スのように感じてしまった私です。
がしかし考えてみれば私も共通語を主に使って早幾年、飛騨方言は遠い昔のことばになりました。
つまりはあるいは私も子供のころ、このような語法(というか誤法)を用いていたのかもしれません。
私(実は既に飛騨方言アウトサイダー)は是非ともその当時のインサイダー佐七に会って
会話をしてみたい。
ドラえもんお願い、タイムマシンちょっと貸して!
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