存在を示す動詞「ゐる・をる」、ですが、
飛騨方言・おる、の成因に関する一考察
と東西対立・一段動詞否定形もご参考までに。
つまりは、存在を示す動詞「ゐる・をる」+否定の助動詞・ない/ぬ、
の組み合わせを考えますと、
飛騨方言は西側に属して、おらん(をらぬ)、といいます。
他方、東京語は、いない、です。
ところが現代語の共通語では、
例えば、家には誰もおらず、〜しており、等の
言い方があり、これを、家には誰もいず、〜してい、
と変換すると妙な言い回しになってしまいます。
あるいは、かつては使用されていたのであろうが
何時の時代からか廃れてしまったのだろう、と
直感してネット検索をしてみました。
"ゐず"をキーワードにて検索しますと、
古典文学の情報がヒットするのは当然として、
戦前の文章、つまりは歴史的仮名遣いの文字情報が
ヒットしました。
あるいは現代短歌・俳句と思しきもののなかにも
"ゐず"の字句を使用する作品が見られます。
東京界隈では、どうも戦前あたりまで、つまりはごく最近まで、
家には誰もいず、〜してい、などと話されていた
という事ではないでしょうか。
飛騨方言は繰り返しになりますが、西側の言い回し・をらぬ、
の地方ですから、筆者は郷土で、誰もいず、〜してい、を
聞いた覚えはありません。
がしかし、共通語が、誰もおらず、〜しており、
になっている以上は、誰もいず、〜してい、と
話す地方があれば、それは東側の言い回しの
方言という事になるのでしょう。
尤も、誰もいないで、〜していて、
などの言い回しを必ず用いて、ゐる・をる、の混同が
一切、無いというなら立派な事でしょうが。
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