大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

「ど」でかい

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私:接頭語「ど」は現代語としても頻用される代表的な接頭語。名詞「ド派手」、形容詞「どでかい」、形容動詞「ど生意気な」、動詞「ど突く」。
君:万能ね。それがどうかしたの?
私:形容詞「どでかい」で何か気づかないかな。ヒントは「でかい」の語源。
君:「でかい」の語源は「ど」+「いかし」。飛州郡代・長谷川忠崇の飛州志ね。
私:そう。アマチュアの私が飛騨方言いのちで書いているので学問的誤謬が含まれているかもしれないが敢えて世に問う事にした。
君:近世語よね。江戸初期。
私:そう。1744-48(延享年間1-5)地誌"飛州志"代官長谷川忠崇の記載じゃないかな。飛騨代官赴任が享保13年(1728年)で、病免が延享2年(1745年)『徳川幕府全代官人名辞典』東京堂出版。この間の現在なら東京人たる長谷川忠崇の飛騨方言びっくり物語が「飛州志」。
君:つまりは接頭語「ど」の発祥は飛騨とでもおっしゃりたいわけ。
私:平たく言うとそうなる。正確には語誌的には。角川古語大辞典全五巻には接頭語「ど」について新撰大阪詞大全、天保15年(1855)、を引用している。
君:江戸も後期ね。
私:その通り。つまりは飛州志が語誌的にはトップバッターなんだ。講談社「江戸語大辞典」によれば、「ど偉い、弘化5、1848」「ど黒い、文化9、1812」「ど性骨、文化6、1809」「ど多福、安政4、1848」「ど頭、文化6、1809」「どぬける、寛政11、1799」「どひつこい、文化11、1814」「どめくら、文政11、1828」以上の記載があった。ふう
君:あらあら、全て江戸後期に近いわ。明らかに飛州志の後代ね。
私:東京堂出版「近世上方語辞典」では、「どぎつい、元治前後、1864」「ど突く、寛延2、1749」「どひつこい、寛延2、1749」「どぶさる、正徳3、1713」「どぶとい、寛政1、1789」「どぶるい、享保2、1717」「どまぐれる、宝永6、1709」、以上だった。
君:あら、上方接頭語語「ど」が宝永・正徳・享保なら飛州志よりやや古いじゃないの。ひいき目に見て同年代と言えなくもないけれど。
私:まさにそうなんだよ。接頭語「ど」は上方で近世初期、そして江戸で近世後期という事がわかる。そしてさらにその上を行くのが飛騨方言の「でかい」で、これは「ど」+「いかし」の連母音融合・短呼化で間違いないと思うけれど、長谷川忠崇はこの面白い飛騨方言の表現に興味をいだいた。この前後の世の中の流れとして上方から江戸へ、接頭語「ど」が伝搬したという事。上方に「ど」があり、「どいかい」という造語は日本語の語誌としては上方で必然的に生まれて江戸へ伝搬するコースであったのだろうが、飛騨で「でかい」が生まれ、これが一気に江戸に広まったのでは、という事。
君:あくまでも妄想だわね。
私:妄想次いでに、江戸語の「ど偉い、弘化5、1848」だが尾張方言では「でーれー」であり、名古屋限定キリンビール「でらうま」に至っている。江戸は「どえらい」だから近世初期には尾張方言でもそうだったのだろうが、近世後期ないし近代語で「でーれー」になったのだろう。これも妄想。岐阜名古屋では「どい・どえ」の連母音融合・短呼化が生じやすい土地柄。これも妄想。
君:逆に言えば現代語の接頭語「ど」だから、音韻学的にはなかなか強固、連母音融合・短呼化は市内のが普通なのね。
私:ひとつ疑問に思うんだけどね。「どなる怒鳴、文政7、1824」。これとて接頭語「ど」+自ラ四「なる鳴」による造語機能、つまりはパウリの公式だと思うんだけど。
君:それはそうね。「ど怒」は当時の当て字でしょうね。漢文を書くのが当たり前の時代だったから。ちなみに自ラ四「なる鳴」の語源は名詞「ね音」の交替形「な」に動詞活用語尾が付いたものだと思うわ。
私:うん、そして「なる鳴」の意味は名前や評判が響き渡る、広く知られる、という意味。つまりは染み入るような伝搬を示すのだが、これを強めるという事は「一発ドカンで言葉が伝わる」というような当初の意味があって、それが瞬く間に意味が変化、つまりは「言葉荒々しくわめき散らす」というような、少し悪い意味に変化してしまったのであろうことは容易に想像がつく。
君:ほほほ、全てが妄想よ。語源も、言葉の生成も、伝搬も、意味の変化も。
私:どないもこないもあらしまへん。
君:やめて。それは「どうなるも」の意味だわよ。接頭語とは言わないわ。「この、どあほ」、これが上方の接頭語よ。ほほほ

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