大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

鎌倉時代飛騨方言の動詞連用形促音便

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高山市公式サイト・高山市の歴史 を要約しますと、
▼保延、永治(1135〜1142)の頃には 平時輔朝臣が飛騨の守として三仏寺城(三福寺町歓喜寺の裏山)に在城していた。 3代日の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。 4代目景家は4人の子息と共に平家の臣として京に上っていたが、 治承5年(1181)木曽義仲の軍に攻められた。 留守を預かる景家の室阿紀伊の方と、 二子景綱の息女鶴の前は臣下と共に戦ったが片野町右光山で破れ、三仏寺城に籠城したが城は落ちた。 ▼室町時代は多賀徳言が文安年中(1444〜)現在の城山を築いた後、 ▼永正年間(1504〜)高山外記(たかやまげき)が現在の城山を築城、 町を高山と呼んだ(佐七もびっくり、高い山だから高山ではなかったのね!!)。 ▼戦国時代は三木氏が高山外記、北方の江間氏を滅し、松倉城を築城、 飛騨を手中に収めた。
つまり高山市公式サイトには鎌倉時代の記載がごっそりと抜けており、 歴史の空白時代のように一見、みえます。 しかしインターネットは素晴らしい文化です。 実はこの鎌倉時代の飛騨の歴史を埋めるのが高山別院公式サイト記事・高山別院の歴史でしょう。 鎌倉時代の乱世に飛騨の人々は浄土真宗に救いを求め、 高山別院を骨格とした真宗王国の世が飛騨の鎌倉時代そのものです。 岐阜県図書館記事・嘉念坊善俊 などもご参考までに。

しかし鎌倉時代からは武士の世、坂東からいやがおうにも威勢のいい言葉が 西側に波及していきます。つまりは促音便の誕生です(金田一京助、日本語の変遷、講談社学術文庫)。 つまり筆者は飛騨方言の動詞連用形は 平安時代・平時輔の時代はウ音便・撥音便であったものがこの時代、 鎌倉時代に一部の動詞において促音便に変化し、東京語に近いものになり、 現在に至ったものと考えます。 つまりは、
平安期飛騨方言 鎌倉期飛騨方言
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平家が飛騨支配 乱世の世
京都の影響   鎌倉の影響
飛騨工活躍  既に律令制度崩壊
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言うた     言った
そう言うた   そういった>そった
買うてきた   買ってきた
切りた     切った
張りた     張った
思いた     思った
願いた     願った

死にた     死んだ
泣いた     泣いた
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これは金田一氏著書から著者が敷衍したひとつの見方、 仮説であり実証するものはありません。 方言は庶民の言葉、伝承文化ゆえ 鎌倉期飛騨方言を実証する文献は無いでしょう。

しかしまた、飛騨方言では現在でも、せんならん・いかんならん、 と言います。しなくっちゃならねえ、いかなくっちゃ、等々の典型的坂東方言の言い回しは 飛騨方言には存在しません。

また飛騨方言の特徴といえば、 形容詞連用形ウ音便(例 うつくしょう(=美しく))、 サ行動詞連用形イ音便(例 金を出いた(=出した))など 各種あり、平安時代からの西側方言の特徴が現在に至っています。 平安時代までは飛騨工が都の言葉を飛騨にもたらして 飛騨方言は純粋な西側方言であったのでしょう。 ただし平安末期には飛騨工の制度は消滅し、 京都の言葉はパッタリと 入ってこなくなったのでしょう。

そして飛騨地方の鎌倉時代とは、 飛騨の向こう (つまり信州の向こう、甲斐の向こうの鎌倉) の言葉、つまり動詞連用形促音便が陸伝いに飛騨に伝わった時代と考えても 筆者には不思議でも何でもありません。 また信州方言の流入ルートと言えば安房峠、野麦峠等です。
おまけ

そして飛騨の佐七が飛騨の皆様に送る言葉、
"その時、歴史が動いた。 今回の主人公は平家の国・飛騨を滅ぼした木曽義仲です。 ところが無常の世、義仲もすぐに義経に滅ぼされます。 平家から源氏へ時代の変化は飛騨方言史にとっても激動期だったようです。 つまり鎌倉時代とは坂東方言が中部地方を圧倒した時代、 正に方言東西境界線が西に押しやられた時代でした。 つまり、飛騨の中を!乗鞍の天辺から白山の天辺まで!!"

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