大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 平安時代の飛騨方言

でい・奥座敷、に関する一考察

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飛騨方言・でいですが、 語源は寝殿造りにある事を 記載しました。 本稿はその歴史考察です。

つまりは寝殿造りと飛騨の農家には実は共通点が多いのです。
  1. 原則的に南向きである。 飛騨は山国ゆえ北肌の斜面に家が建つ事も ありますが、家に至る坂道を登りつめると北肌の斜面 をえぐるように玄関へのアプローチがあり、 やはり玄関は南向きです。飛騨人ならばピンと 来ますでしょう。 佐七の親戚の家を今、思い出いたら(=出したら)、 実は全ての家がそうでした。
  2. 母屋は南北ではなく東西に長い。 南肌、北肌の山斜面の農家ならば書くまでも無い事でしょうが、 つまりはそのような斜面にしか家は作らない、という 風水がかつての飛騨にはあったのでしょう。
  3. 玄関は母屋の中央つまり南面の真ん中である。
  4. 玄関前には必ず平坦なグラウンドが設けてあり、 寝殿造りでは南庭、飛騨方言では、かいど、と呼ぶ。
  5. 母屋の左右、つまり東西に随伴する建物がある。 寝殿造りでは西随身所・東随身所であり、 飛騨の農家の場合は蔵・納屋などである。
つまり佐七は、このような飛騨の山間の農家の建築には 平安時代の都の寝殿造りの粋な心が根底にあるのでは、 と考えたくなってしまう田舎出なのでしょう。

ところで、寝殿を造った人といえば、 社会科の問題では答えは桓武天皇でしょうが、 正しい答えは大工さん、平安京の造営に携わった飛騨工です。 ところが彼等をエリート建築家集団と考えてはいけません。 実は飛騨の全ての村々からの使役です。 年に数百人、数世紀に渡って延べ数万人と言われる人数の飛騨の民です。 大半が短期赴任者、このように平安時代には飛騨に都の文化が直輸入されたのでした。

となれば、飛騨の農家に寝殿造りの言葉が今に残り、 またその造りは寝殿造りの鏡像である事が最早、 どなた様もご理解いただけましょう。

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