今"あやまんな"をキーワードにネット検索をしますと、相当数がヒットするのですが、
あやまりな、つまりは、あやまりなさいの意味で使用されている例ばかりでした。
ところが飛騨方言では、あやまんな、といえば、〜るな、の撥音便で用いられますので
共通語の正反対の意味、あやまるな、になり、この言葉が事件に発展します。つまり
共通語・あやまんな −>あやまりなさいという意味
飛騨方言・あやまんな −>あやまってはいけないという意味
これを少しひねるだけです。飛騨人が、あやまんな、と言われた場合、
謝らなくてもホントいいのかなあと内心は思いつつ、結局は謝らず、
謝るべき相手の心証を害するという話を作る事ができます。
あるいはその逆ですが、
飛騨人が東京の人に、あやまんな、と言った場合ですが、この場合はややこっけいです。
謝ってはいけない、と忠告したにもかかわらず東京の人が誤りだすので飛騨人は途端に取り付く島もない訳ですから。
つまり、いきなり次回の予告でしゃみしゃっきりですが、四部作になります。
一部作は東京人、飛騨人の二人のみが登場し、東京人が飛騨人にあやまんな、と言う場合です。
東京人が、"お前が悪い・あやまりなさい。"というのに飛騨人は、
"誤らなくてもいいですよ。私が悪かったのですから。"といわれたと勘違いして、
"いえいえ、私こそ誤るべきです。"というものだから東京人がなんだ、素直に謝るじゃないかこいつは、と一瞬キョトンとするわけですね。
二部作も東京人、飛騨人の二人のみが登場し、飛騨人が東京人にあやまんな、
と言う場合です。飛騨人が私が悪いのだからあなたは謝らなくてもいいですよ、というのに
東京人は、"お前が悪い。誤れ。"といわれたと勘違いして、"何を。お前こそ。"と
いいだすものですから喧嘩の蒸し返しが始まります。行く末こわいですね。
三部作は東京人、飛騨人の二人が第三者に対して謝ろうかどうしようか、という場合ですが、
東京人が"謝ったほうがいいね。"という意味で飛騨人にあやまんな、と言う場合、飛騨人は、
"謝る必要など無いよね。"と言われたと勘違いして、第三者に対して謝ろうとしないものですから
東京人は取り付く島がなくなるという筋書きです。
四部作は東京人、飛騨人の二人が第三者に対して謝ろうかどうしようか、という場合ですが、
飛騨人が"謝る必要など無いよね。"という意味で東京人にあやまんな、と言う場合、東京人は、
"謝ったほうがいいね。"と言われたと勘違いして、ハイハイと第三者に対して謝りだすものですから
飛騨人が慌てふためくという筋書きです。
参考記事 飛騨方言におけるラ行動詞の撥音便
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