大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

同音衝突・いきる

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私:久しぶりだが同音衝突の話にしよう。15年で二千頁以上書いたが、過去に一度だけ同音衝突をとりあげた事がある(ここ)。英語では homonym clash。流石に英単語に関してはネット情報は多いね。欧米人の関心の高さを伺い知る事ができる。
君:light と言う単語は「光」と「軽い」、中学生でも知っているわね。
私:ははは、そうだが clash/crush の違いが判るかい。
君:意地悪ね。国語の世界でお話しなさいませ。留学したお方だからこそ英語は禁じ手よ。
私:ははは、参ったな。日本語で簡単に説明しよう。ビリヤードで複数の玉がお互いにはじき返しているような状態が clash、その一つの玉を床に投げつけ玉が木っ端みじんになるのが crush だ。
君:なるほど、全く異なった意味の動詞なのね。それに綴りが違うから clash/crush は homonym ではなく near-homonym なのかしら。
私:大正解だ。両語は発音が近い異義語、日本語訳としては準同音異義語はどうだろう。ホモはギリシャ語で同一、ラテン語では人類 Homo Sapiens。ホモ・ヘテロ接合型と言えばメンデルの法則、中学で習ったけどね。
君:なによ、そのほめ殺しこそいとさがなけれ。ははあ、いつも私に言われている言葉のお返しのつもり?
私:まあそんなところだ。
君:ところで「いきる」の同音衝突について語りたいという事は、昨日の原稿の続きのお話をしたい、という事なのよね。
私:ははは、その通り。いつもの原稿はネタ探し、辞書を引っ掻き回し書き続け、オチが出来るまで書くというパターンだが、今日は辞書は不要だね。自由に想像で書き続け、オチが見つかればそこで幕引きだ。
君:今日のモチーフ、つまり核心はこういう事なのよね。つまり「いきる熱」は四段から五段になって飛騨方言に生きているけれど、その一方の中央では「いきる生」は明治になってラ上一動詞でデビューした事によって「いきる生」が「いきる熱」を clash したのでは、という筋書きなのよね。
私:ああ、その通り。僕は国語学の徒でも言語学の徒でもない。無名のアマチュアだから、大胆に自由奔放に思った事を書いている。真実とは限らない。ひとつのものの見方を書くだけの事だ。
君:ほほほ、わかるわよ。同音衝突とは一対のひとつが生きて他方は死語になる事、中央では何故「熱る」が死語になったか、理由を推察してみた、という事でしょ?
私:お察しがいいね。では早速に。江戸時代はこの二つの動詞は「熱る」自ラ四と「生く」自カ上二だったから同音どころか異音なので使い分けは何ら問題なかった訳だ。これが明治になり、文語から口語への嵐が起きて「熱る」「生きる」で同音になってしまった。中央語としては重要度に於いて高い動詞が低い動詞を死語に追いやるわけだ。「熱る」なんて言わなくても「暑い」と言えばいい。それに「熱る・暑い」なんて季節限定の用言だし、「生きる」という動詞は各国語でも最重要動詞と言ってもいいだろう。尤も、このような重要動詞を上二から上一に変えてしまう事自体が問題といえば問題だが。
君:ほほほ、飛騨方言ではどうして死語にならなかったのか、の補足説明が必要だわよ。
私:ふふふ、ひっかかったぞ。当然そのような突っ込みが来ると予想してこの原稿を書こうかな、と思ったんだよ。何故だと思う?
君:確かに飛騨は冬が長い地方で、つまりは夏が短く、「熱る」を使う期間は東京よりは短いわね。「生きる」がオールシーズンなのは飛騨も東京も同じよね。
私:あまり論拠にはならんだろう。答えはアクセントじゃないのかな。
君:アクセントねぇ。アクセント辞典よね。
私:ああ、現代語のアクセント、然も東京アクセントだ。「生きる」は中高、そしてNHKと三省堂、両辞典には「熱る」は死語につき記載はないが、有難いことに「熱る」の連用形つまり体言「いきれ熱」の記載があって、これが何と尾高。つまりはアクセントの滝は[れ]、という事は死語「熱る」の終止形のアクセントも尾高、つまりは、ヤッホー、死語「熱る」は尾高動詞と判明した。それに第一にね、「熱る」が尾高だなんて事は飛騨方言ネイティブの私達の言語中枢が知っている事なんやさ。そやながいな(そうじゃないですか)。
君:ほほほ、それでも説明になっていないわよ。つまりは江戸時代に中央でも飛騨でも「熱る」は尾高動詞だったのでしょ。そこへもってきて明治に「生きる」の中高動詞が出現しても、そもそもが中央ですら同音衝突は生じていなかったという事じゃないの。アクセントの違いでこの二つの動詞は容易に聞き分けられると考えれば、そもそもが同音衝突で「熱る」が死語に追いやられたのではなく、異音の衝突で死語に追いやられたのよ。つまりはそもそもが同音衝突のテーマじゃなかったという事じゃないの。そして飛騨方言では異アクセントで使い分けているという事なのでしょ。
私:うーん、そうだね。でも、君の論理じゃ江戸時代の「熱る」が現代飛騨方言と同じく尾高動詞であったという前提に立っているだろ。そもそもが若しそうでなかったとしたらどう思う?
君:うーん、そうなってくるとわからなくなるわね。
私:これも仮説にすぎないが、「熱る」の語源は「いき息」+「きる切」じゃないかと思うんだが、「きる切」って頭高アクセントの動詞だぜ。となれば「いききる・いきる」は中高アクセント動詞になるだろ。少なくとも尾高にはならないよね。つまりは江戸時代の「熱る」も明治時代の「生きる」も共に中高アクセントだったんじゃないかな、と考えちゃうんだよ。
君:ほほほ、何が何でも「熱る」「生きる」は同音衝突に違いない、というお話に持って行きたかったのね。つまりは結論を作ってから、前提を導き出そう、って魂胆だったのよ、あなたは。
私:うーん、ばれたか。まあ、そんなところだ。僕の得意技は数学でそれをやる事。センター試験の穴埋めを逆にやって解いた事がある。今のところ、江戸時代の「熱る」のアクセントは不明、という事にしておこう。ただし「息切る」が語源だとすれば中高になるので、明治になって飛騨方言では「熱る」を強引に尾高アクセントにして同音衝突を回避したのかもね。偉大なる発明。
君:あなた、どうかしてるわよ。共通語に「いきれ」尾高名詞があるじゃない。中央でも「熱る」は尾高だった可能性が大でしょ。何でもかんでも飛騨の発明、恥ずかしい事を言わないでね。全国に情報を発信する時は冷静に一晩ほど考えてからアップなさったほうがいいわよ。
私:なるほどそうか。おっしゃる通りだ。明治に「生きる」中高が出現する事を見越していたかのように中央では「息切る・熱る」がいつのまにか中高から尾高に変身していたのかも、というのが結論かね。飛騨の人間は素直に受け止めてこの動詞を方言として残し、中央では異音の衝突をも嫌って「熱る」を死語に追いやったのかも。
君:真相は全て、藪の中。
私:いや、そうじゃない。そこで出てくるのが、能・狂言・歌舞伎、等々の伝統芸だろう。中世・近代のアクセントを知る手がかりだ。
君:でも、「熱る」の出典に能・狂言・歌舞伎は無かったのでしょ。調べようがないわよ。
私:ドキッ、ばれたか。ははは、その通り。誰にも近世以前の「熱る」のアクセントはわからないだろうと思って、書きたい事を書いたのさ。
君:まあ、品が無いわね。今日の結論、そもそもが同音衝突か否か、それは読者の皆様の想像にお任せなのよね。

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