大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 歴史 |
言海 |
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私:今日は明治時代に発行された我が国初の国語辞典について。読みは「げんかい」。 君:初版はいつだったかしら。 私:明治22年(1889)5月15日だ。著作者は大槻文彦。明治政府、つまりは文部省の官僚。1847年、江戸のお生まれ。大学南校(東大の前身)に学び、明治5年に文部省入局、直ぐに宮城師範学校(宮城教育大学の前身)の校長に就任、三年後に本省に戻り、つまりは官僚時代の任務として国語辞典編纂を一人、黙々とやっておられたようだ。17年の年月を費やして言海は出版された。 君:富国強兵が国是の時に随分とソフトなお仕事。国語辞典編集とはね。でも当時は日本人が皆、方言を話していた時代だったから、近代文明国家を目指すには国語辞典の創刊も国是だったのよね。 私:History of the OEDによればオックスフォード辞書が計画されたのが1857、初版が1884。James Murray (1837-1915)の努力によるところが大きいが、強大な国力が後押しする国の威信をかけた事業。片や東洋の一小国が、というより大槻文彦氏おひとりが大英帝国に負けじと偉業を成し遂げられたのは本当に尊敬に値する。またなんと家屋敷を売り英国留学の準備をしていたが、明治13年、洋銀相場が高騰、円価値が下がる。留学は断念、再び辞書の仕事に専念する。 君:歴史秘話ヒストリアに取り上げて欲しいおかたね。 私:正にそうなんだ。波乱万丈の人生。とにかく何もないところで形あるものを作る事は至難の業、古今の文学を読み、日々の如く流入する外来語、外国語をも取り入れ、英文法を参考に国文法大系を構築、ひたすらに原稿を作る日々。瞬く間に十七年の月日が流れてしまったが、この間に結婚するも、子供も新妻も病死という人生の試練が待ち構える。ようやく完成かという時になって、なんと明治政府がお金が無いから辞典は発行しませんと言いだす始末。つまりは大槻は私費を投じて言海を出版した。彼は決して文部省の高給取りで文学三昧をなさったのではない。 君:まあ、なんと言う事。目頭が熱くなるわ。 私:初版以来、国民は言海を大絶賛、また言海の内容は実は辞典機能だけに留まらない。索引、序、編纂の大意、の各章に続き、百ページ近い「語法指南」の章があるんだ。 君:語法指南の内容は? 私:一言で言えば国文法概論。品詞からはじまり動詞・助動詞・形容詞の活用等々、詳細な記述というか、このような大系を考え、記述した。当時は未然・連用・・という言葉はなく、彼は第一変化・第二変化・・の如く記述しているが、これは現代の国文法に通ずるもの。僕は大槻文彦を国語の親と思っている。 君:大槻様の苦労があって私達がいるのよね。 私:言海の出版がオックスフォード辞書初版に遅れる事5年、などという軽薄な計算を決してしてはならない。大槻の原稿は既に明治19年あたりにはほぼ完成していた。明治政府の理解がありさえすれば英国に先んじて、というか世界で最初に日本国語辞典が発刊されていた可能性だってあったのに。 君:何はともあれ、出版されれば一区切りね。 私:たちまちにベストセラーとなり、昭和6年には628版が発行される。ただし初版当初から言海を批判する者もいた。 君:例えば。 私:福沢諭吉が言海がイロハ順でなく五十音順である事に顔をしかめたのは有名。竹村鍛(きたう)は帝国文学で言海の短所として古語雅言が少なく中学の学習に差し支える事、近松・西鶴等の近世作品の用語の漏れが多い事、新聞雑誌の漢語の過半が漏れている事を批判。幸田露伴は日常語・工業農業の語彙の不足を批判。まあいい。批判は嫉妬の裏返しだからな。ひどかったのが山田美妙だ。 君:どういう事? 私:山田は言海を批判し、なおかつ言海を丸写しにし多少の加筆にて「日本大辞書全十一冊」を出版した。しかも言海初版の翌年から刊行後に一年で完結。 君:まあ、なんと言う事! 私:ね。ひでえ話だろ。後世に恥をさらしただけの悪業と言わずして何という。呆れるばかりの悲しき人間の性(さが)。小説物だね。 君:判官贔屓(ひいき)みたいな気持ちが働いて、言海が戦前のベストセラーになったのかしらね。 私:ああ、そうだろうね。言海に感化された多くの日本人。山田辞書の歴史評価は無いに等しい。山本有三は小学校を卒業するや丁稚奉公に出されたが、言海を持っていた。蔵の中でこっそりと言海を引きつつ文学書を読んでいたところを主人に見つけられ、全て取り上げられてしまった事がある、と晩年に回想している。自伝的小説「路傍の石」は彼の原体験に基づいている。 君:それも耐え難いわね。本当に可哀そう。 私:大槻文彦といい、山本有三といい、いやあ明治の人は気骨があるね。 君:・・気になる事があるのだけど。大槻様は再婚なさったのかしら。 私:彼は晩婚だ。38歳で25歳の内藤いよ様と結婚。ところが、いよ様は30歳の若さで病没。次女「ゑみ」様も同年に病没。結婚生活は5年だけ。その三年後、29歳の小栗ふく様と再婚していらっしゃる。 君:安心したわ。でも、いよ様とゑみ様が相次いでお亡くなりになって、ご長女と二人だけの三年間。絶句よね。心がポキリ、これは泣けるの一言では済まないわね。長女のお名前は。 私:幸(さち)様だ。私事ながら大槻氏と僕は同類項だ。つまりは娘が二人。有難い事に二人は元気で三十代のおばさん達だ。仲は良い。 君:ならば猶更の事、大槻様ご家族の霊にお祈りしなくてはね。合掌 |
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