大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

若しか飛騨工のルーツ飛騨国分寺建立

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2006/10/10
昨日は手元の本、あるいはネット情報をかき集めて簡単な飛騨史略年表を作りました。尤も各種の書には既に詳細に著わされているのでしょうね。でも、ネット情報は少ないので、この点も今後修正加筆しないと。さながら筆者の忘れな草。前置きはさておき、
746(天平18年)飛騨国分寺草建765(神護元年)祖康調の制定、飛騨工始まる
の二行にエッと思いませんか。飛騨国分寺には七重大塔の巨大な礎石が残っています。建立当初のものと考えるべきでしょう。つまりは租庸調の制定、但し飛騨では変わりに人(飛騨工)の徴用とした制度の始まる十九年も前に既に飛騨高山に平城京の大伽藍に比す七重大塔の立派な寺院が建立されたという事です。木材は全て飛騨の国内で調達されたのでしょう。日本史の問題では国分寺を作った人は聖武天皇ですが、落語での答えは大工さんです。如何に飛騨は山国、大工仕事がお手の物の国柄とは言え、飛騨の地元の大工さん達が七重大塔を自力で作り上げる事など不可能でしょう。第一、貧しかった飛騨の国、資金がありません。もとより国家事業であったからこそ、都から建築エリートが派遣され、但し地元の木材を調達し、地元の大工さんらを徴用し、成し遂げられた大事業であったのでしょう。

ですから私の大胆な、でもないかな、推察ですが、この飛騨国分寺創建をもって飛騨工の技術の事始としたい所です。となれば十九年後に租庸調が始まった時、飛騨からは飛騨工のマンパワーを出せ、都に同じ建物を作れ、という話になってもなんら不思議ではありません。租庸調の開始はかつての都の親方と飛騨の弟子の再会の機会であった可能性があります。

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