大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

佐七の大反省、飛騨方言・てきない、の語源発見物語(続)

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体がえらい、疲れるという意味の飛騨方言・てきないの語源は、たいぎ(大儀)なり、です。気がつくまでに実は随分と時間がかかりました。以下に示します思い込みが重なったためです。

(てきない、は代表的飛騨方言なのでやはり是非とも語源を知りたい、私にこのような強烈な動機があったのは飛騨に生まれ育った私としてはむしろ当然の事なのですが、飛騨方言を話されない方にとっては、たとえそんな俚言・方言は別に興味もないし、という事であっても、以下の記事でお互いに共感できる接点というものがないでしょうかねえ。 )

その一 てきない、は形容詞です。がしかしその語源・たいぎなり、は実は形容動詞でした。形容詞の語源は形容詞であろうと始めから決め込んでいたのがそもそもの間違いです。

その二 飛騨方言・てきない、に意味が似た飛騨方言形容詞・ずつない、がありますが、てきない、の語源が大儀なりである以上、語源を考える上で、てきない・ずつない、の両形容詞の関係を考察する事が返って障害になっていました。別稿・ずつない名古屋、てきない富山、ずつなくもてきない飛騨をご参考までに。

その三 共通語では清音の助動詞等々に飛騨方言は濁音化現象が見られます。つまり何かにつけ濁音化するのが飛騨方言であるとの先入観から抜け出せなかったのです。何のことはない、事実は逆、語源が濁音でこれが清音になったのが飛騨方言・てきない、でした。

その四 件(くだん)の飛騨方言・てきないの通りですが、"江戸時代、中間、小者で話されていた言葉である"という広辞苑の記載が実に曲者でした。語源・大儀なり、は実は目上の者が目下に対して骨折りをいたわりねぎらうために用いた言葉です。つまり共通語現代語では、かたじけないご苦労であるぞ、という意味の言葉です。それがいつのまにやら目下の中間、小者らがご主人様の言葉を拝借して自分達でお互いにご苦労様です、と言い出したというわけです。やれやれ、中間、小者をキーワードにネット検索しても語源にはたどり着けない理由がこれで皆様もおわかりですね。天下の広辞苑に佐七が物申す。記載が不適切なり、罪は大きいですぞ。

その五 飛騨方言は発音が明瞭ですから、てぇぎな>てきな、という短呼化現象がよもや飛騨方言にあろうとは、やはり思い込みはいけませんね。

その六 ところがその五とはまた逆に、よもや語源に言葉が足されて言葉が長くなった飛騨方言・てきない、ですからやれやれです。どういう事かと申しますと、大儀 + な>てぇぎな>てきな、までは実は語が短くなるのが方言という原則が当てはまります。また、大儀 + な>てぇぎな>てきな、と変化する間いずれも副詞句という事で品詞も変わっていません。ところが、てきな>てきない、と変化した時点は実は大変化というわけです。語数が増加し、品詞が変わってしまったというわけです。こうなりますと私のような浅学の身が語源を発見する事はもはや不可能になります。

その七 俚諺であると思い込んだ。てきない、という言葉が富山県、石川県で話されているらしい事は当初から判っていましたが隣県です。隣県以外で話されていないようだから方言ではなく俚諺かもね、と思ったのです。共通方言であり、語源が実は古語に由来するという平凡な結論である事を無意識に嫌っていたのかも知れません。つまりは、てきない、という言葉に対するロマンスですわい。

以上、しゃみしゃっきりの佐七の大反省文でした。いやあ、それにしても方言のルーツを探るって面白いですね。それでは皆さん、また来週。さいなら、さいなら。

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