大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

国文法「る、らる」に関する一考察

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私:ここの所、ずうっと深夜に原稿を書いている。悪い癖。早寝早起きで書いたほうがいいような気もするのだが。
君:そりゃそうよ。
私:早速に。時間というものは作る物、という事で、本業で忙しいが、少しでも時間を作って国語の歴史のような本を読んでいる。ふっと気づかされる事もあるので表題となった。
君:これは明らかに大風呂敷。正しくは、国文法「る、らる」に関する思いつき、だわよ。
私:手厳しいな。合ってるだけに反論しようがないけれど。こちらの勉強は仕事でも無く、学会でもなく、原稿の期限に迫られるわけでもなく、素人が勝手気ままに書いている事だから、気楽な事このうえない。気取った書き方も一種のお遊びという事で大目に見てくれ。例によって、若し間違っていたらゴメンナサイだ。
君:前置きはいいから。
私:じゃあ。昨晩も寝しなに無我夢中で三分ほどキーボードを叩きまくり「可能表現」について書いたが、若しかして誤謬が含まれているかもしれない。それは兎も角、今日は一日、仕事が忙しくて散歩が出来なかったが、食事の時やらトイレやら、ぶつくさと活用を内省しながら、ふむなるほど、と思いついた事。蛇足ながら、飛騨方言動詞の可能表現も参考までに。
君:表題って重要助動詞の事でしょ。
私:その通り。高校時代に皆が暗記する。「る、らる」は四つの機能、受身・可能・自発・尊敬。だから動詞の可能表現は「る、らる」を用いて達成できる。
君:何を当たり前の事を。
私:ところで、受身ってなんだろう。当然ながら能動態・受動態の区別の事。手元に明解日本語辞典があるが、ヴォイスという片仮名で内容が記述してある。国文法も既に英語的に理解しなくてはいけない時代になっているようだ。つまりは「る、らる」は膠着語たる日本語の動詞に助動詞の活用を接尾語として付加する事により、動詞の態を明示する機能がある、という事なんだよね。要は。
君:まあね。
私:ところで自動詞・他動詞という事で動詞を二分するので自他の対という機能は目的語の有無という観点からの動詞の下位分類。「る、らる」には自発の機能があるので、自動詞から他動詞へ、或いは他動詞から自動詞へ、という造語機能がある。古語では「受く」が「受かる・受ける」になる。
君:今の時期、受験生は大変よね。受けたら受かるといいわね。
私:奇跡を信ずる事かな。これの自動詞って何だろう。でも受身なら作る事ができる。左七は奇跡を信じる。奇跡は左七に信じられる。
君:なるほど。
私:こうも言える。左七は奇跡を信じられる。可能表現だ。
君:なるほど、だから「る、らる」は二つの機能、受身・可能、だわね。残りの二つ、自発・尊敬、はどうなの?
私:そんなの屁理屈を言ってどれだけでも作れるんだよ。つまり、適当に「る、らる」を動詞にくっつけりゃ、自在に意味が変えられる。これは便利だ、という事で日本人に受け入れらけて来たという事なのかな。
君:という事が思いつきという事ね。
私:そう、思いつきの考察である。自他対・態の移動(受身・自発)は変幻自在、というのが結論。可能表現もそこに含まれる。但し可能動詞の場合はとんでもない制約がひとつあるね。
君:あら、何だったかしら。
私:これも平凡な結論だが、可能動詞としては意味がナンセンスな場合。これは受け入れられず、他の意味に必ず転化する。つまりは受身などに。或いはそもそもが意味がナンセンスにつき可能表現も受身表現も無い場合だってある。例えば、川が流れる、とか。
君:自他対はあるわよ。流れる川に送り火を流す。
私:精霊流しか。

流すに可能表現はある。流せる。流れるに可能表現は無い。というか、流す、が、流れる、になった瞬間に、流れる、そのものが可能表現の意味を内包している、という事じゃないかな。
君:何とでも屁理屈は書けるわね。
私:左七は屁理屈を書く。左七は屁理屈が書ける。屁理屈は左七によって書かれる。屁理屈は左七に書かれる。
君:自意識過剰さんへ、左七の気持ちをこととはば、俺は屁理屈を書かれる。その心は、なんと身内尊敬どころか、自分尊敬。おバカな左七。ほほほ

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