大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

みえる(=おみえになる)

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私:飛騨方言といっても廃れつつあるのだし、無尽蔵にある訳ではない。一つの単語を見方を変えて扱う事も多い。「ギア方言(岐阜愛知の共通方言)」という学術語がある。命名は元富山大教授・故都竹通年雄先生(萩原町尾崎のご出身)。ギア方言の代表が敬語補助動詞・みえる。
名古屋の尊敬表現・みえる
してみえる尊敬表現に関する一考察
してみえる尊敬表現に関する一考察(2)
みえる自ラ下一、に関する飛騨人と東京人の意識差
君:飛騨方言の敬語表現としてはこれひとつだけ覚えていてください、というほど有名な話よね。
私:尊敬表現「みえる」は飛騨・美濃のみならず愛知県全域で使われる。岐阜県の人口が二百万、愛知県が四百万、合わせて六百万人の日本人が尊敬表現「みえる」を話している。こうなってくると既に一地方の方言というスケールではない。従って「地域共通語」と表現される事もある。NHK岐阜あるいはNHK愛知のアナウンサー様ですらポロリとお話しなさるレベル。取り立てて方言と言わないほうがいいかもしれないね。
君:NHKのアナウンサー、学校教員、行政の長、等々、社会の上層と言われる方々も含めて愛知・岐阜の人々がどなたもお使いになるので、矯正は不可能よね。
私:うん。それに「しておみえです」というべきところを「してみえます」といった所で、意味が通じないなどという事は有り得ない。個人の名誉のために、昨今のコロナ禍で愛知医大のM先生がテレビによくお出になるが、「してみえます」を連発なさる。お話の内容は面白いし意味が通じる。方言丸出しのM先生、という意味ではなく「地域共通語」をお話なさっているだけの事。関西の先生は臆することなく畿内方言でテレビに出演なさるが、中部の先生がギア方言を交えて発言なさってどこがいけないのですか、と国民の皆様に問わせていただきたい。
君:尊敬表現「みえる」を話す人は間違いなく岐阜か愛知のご出身ね。
私:ああ、間違いない。古語助動詞「る・らる」には受身・可能・自発・尊敬の四つの意味がある。自ヤ下二「みゆ」だから「らる」が自ヤ下二語幹に接続し、「みえらる」、口語文法では「みえられる」、これがギアではいつの間にか尊敬「みえる」になったようだね。中央では可能動詞「みえる」になった事は書かずもがな。同音異義語ゆえの悲劇のギア方言「みえる」。ギア方言では「みえる」が尊敬表現であるがゆえに、語幹「みえ」に尊敬の意味が組み込まれてしまった。従って完了・過去「たり」が自ヤ下二語幹に接続して「みえた」といっても、「おみえになりました」という意味の尊敬過去の意味で用いられる。確かに東京や関西の人達にとっては「みえる・みえた」で尊敬表現は違和感を覚えてしまわれるのでは。でも私はじめ、中部の人間は尊敬表現「みえる・みえた」を公の場でも使っている。暖かい目で見て欲しい。ただし書き言葉となれば別、この表現で本を出版したり論文を書いたりしてはダメ。
君:そういう先生がお見えにならない事を祈るばかりね。ほほほ

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