別稿・文法コーナーに 飛騨方言における助詞の「は」と「が」の使い分けについて、
使い分けの消滅、
係り結び、
高校数学の集合論的解釈、
をお書きしましたが、AはBだ、と、BがAだ、とは同じ意味である、と言う事に
ついて補足説明しましょう。例えば、
佐七は日本人だ、という文章は自然でしょうが、
日本人が佐七だ、という文章をどう解釈なさいますか。
最近のミスユニバースの話題の次いでに、
世界イケメン大会の集合写真と参加者表があったとします。
写真中の Sashichi という名札の男性は、と言う事で
表で確認すると、佐七は日本人だ、の文章になり、
また表だけをみても、韓国人がペー・ヨンジュン、日本人が大西佐七、
ですから、AはB=BがA、と言う事がお分かりでしょう。
さて本題、筆者なりに、
「が」のつもりで、「は」と言うのが飛騨方言の特徴
ではないかと考えます。
例えば、おりゃはらっとくさ
とは、おれが払っておくよ、という意味です。
おれは払っておくよ、という意味ではありません。
つまり、割り勘でいこう、皆が平等に払うべきだ、すくなくとも俺は払うよ、
という意味ではありません。
お誘いした私が払うのは当然の事、あなたも払う必要はありません、という
意味ですね。
また皿のご馳走が人数で割り切れないと、皿に残るのは
遠慮の塊、こんな時は飛騨方言では、おりゃ遠慮しとくさ
ですね。
勿論、私は遠慮します、あなたがお食べなさい、という意味。
この場合は、勿論、「は」のつもりで、「は」と言っているのです。
この場合にすら、「が」のつもりで、「は」と言ったのであれば、
私が遠慮します、という事になり、
つまりは、食い物の恨みは恐ろしい、あなたはいかにも
食欲の権化、顔全体に書いてありますね、たまにはあなたが遠慮すべき
なのだがしかたなくいつものように私が遠慮します、
という意味になってしまいます。
結論ですが、飛騨方言とて日本語ですから、「は」と「が」の使い分けは
当然ながらあるのです。
但し、発音はしない。この事が災いして
「は」のつもりで、「は」と言う事がある 例 おりゃ遠慮しとくさ
「が」のつもりで、「が」と言う事がある 例 おりゃ誘ったんやで
「が」のつもりで、「は」と言う事がある 例 おりゃはらっとくさ
「は」のつもりで、「が」とは決して言わない。
というのが結論ですが、
つまりはこの原則にあてはまらない飛騨方言が飛び交うと、
マジ恐い。