いきなり結論ですが、飛騨方言しみる、は
中世語であろうというお話です。
あれこれ辞書を調べたりしますと脈絡が出てきまして、
ひとつにまとまりポンと答えが出ます。
しかし、いきなりアップロードしてはいけない、
少なくとも翌日に再度、読み返してお披露目する事にしています。
さて、飛騨方言しみるの語源は古語動詞・しむ(凍む)
である事は疑うべくもありません。また同語の使われた年代ですが、源氏物語若菜下に、
身もしむる心地して、とあり遠く平安時代です。
そして凍む、から、凍みる、への変化は或いは凍むの連用形凍み+いる、しで
つまりは再動詞化と言う事で、しみる、が発生したのでしょうか。
おそらく安土桃山時代あたりまでには、しみる、という動詞は形成されて
いたのでしょうね。
何故そうかといえば飛騨方言では
まさに反対語でいきるという言葉があるからです。
この語も古語辞典に記載があり、江戸文学の引用が実に多いのですが、
いきる、の年代については近世語との記載の辞書が多いようです。
ところが日葡辞書にも iqiru の記載が既にあります。
つまりは、中世に既に、しみる・いきる、は日本語の共通語であり
畿内では話されていたのでしょう。勿論、飛騨でも話されていたのでしょうね。
私の考えは常に単純です。
つまりは本稿も、飛騨方言の語彙は中世語の語彙である、という結論です。
寒暖の差が激しい内陸性気候である事は実は副次的な理由でしょう。
また皮相な考えかも知れませんが、いきる、も
若しや再動詞化による言葉でしょうか。
いや、古語辞典にないのだからその可能性はないでしょう。
生きる、の例の如くカ行四段動詞が上二段活用するようになったのでしょうか。
まさかねえ。
つまりは、動詞いきる、は中世あたりに何か他の手段によって
突然に出来た言葉らしいというわけです。
あるいは、しみる、と言う言葉に触発されて、いき+きる、
が、いきる、になったというのが私流の語源解釈です。
さて、いきる、が近世に至って、いきりたつ、に変化した事は
よく知られた事のようですが、しみる、から、しみりたつ、という言葉は
生まれませんでした。人はいきりたつが自然はしみりたたない、
と言う事でしゃみしゃっきり。
まとめ 一千年単位で考えると、しみる、という言葉は
あまり変化していない。一方、いきる、は突然に
出現してすぐに、いきりたつ、に化けてしまった。
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