大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
気の毒 |
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私:語彙論の項の気の毒にお書きした通りだが、気の毒の原義は自分の心にとって毒であるという事。 君:つまりは謙譲語。相手の心情を伺って「お気の毒様です」は間違いとおっしゃりたいのね。 私:いやいや。毒は音読みだし、出てくるのは近世文学ばかり。和語ではなく、漢語。自分の心情を表す言葉であったのは江戸初期だけで、享保時代(1716-36)あたりからは相手の気持ちを示す用法が始まり、宝暦時代(1751-64)には専ら相手の気持ちを示す言葉となり現在に至る。相手の気持ちを慮る言葉だから、立派な丁寧語・尊敬語と言うべきだろう。近世語としても現代語としても謙譲語ではない。 君:飛騨方言かわいい、おぞい、しょうしな、きのどく、は相手の気持ちを慮る言葉につき尊敬語という事で、飛騨方言こわい、だけが純粋に自分の心情を語る形容詞という事で謙譲語という事のようね。 私:まあ、そんな感じだ。例文は、あれこーわいさ、花子を好きになってまって。これは自分の心情であって他者の心情ではない。 君:左七君、お気の毒に。花子さん、好きな人がおるんやよ。そう言えば毒の意味の和語って思いつかないわね。 私:うん、無いね。逆引き辞典を見たが記載は無かった。形クあし悪・けし異、があるが。ところで江戸時代の言葉遊びで、気の毒、の反対語があるんだよ。 君:毒の反対語といえば・・・気の薬。 私:ご名答。左七にとって君との会話は気の薬だ。さて言うまでも無いが、気の毒・気の薬、共に形動ナリ。気の薬も、自分にとっての薬の意味、ないし他人にとっての薬の両方の意味だったようだが、共に死語になった。また話が変わって、気の毒が自分の気持ちを表す言葉から自分以外を表す言葉になってしまったのには理由がある。然も二つある。何だと思う? 君:要は百八十度の意味の転換という事になるけれど、気の毒は抽象概念だからかしら。 私:いや、違うと思うな。ひとつには日本語の最大の特徴、主語が無くても文が成立する文法的特質だ。つまりはうなぎ文の特質。 君:三上章先生ね。 私:そう。もう一つは気の毒は形動ナリにて体言に接続する用法が圧倒的に多い。気の毒な事、気の毒な出来事、等々。体言は話し手自身ではないので、論理的帰結として相手の気持ちという事になってしまう。 君:なるほど。気の毒な私、はいただけないわね。いくら自分がみじめでも謙譲語でない以上は使用不可というわけね。 私:時枝誠記は、古典解釈のための日本文法・至文堂・昭和25に主観表現の形容詞・客観表現の形容詞を提唱したが、間違いじゃないのかな。 君:どういう事かしら。 私:気の毒に端的に表れるように、かわいそうという気持ちは実は主観なのか他者の気持ちなのか判然としない。はっきりしている事は心情を表す形容詞。従って形容詞は、主観・客観、のどちらではなく、心情・形状、のどちらを表すかで二分類されるんだ。抽象・具象に二分類されると言ってもいいだろう。そして、心情・抽象を表す形容詞は容易に主観を表す形容詞から客観を表す形容詞(例えば、誰が見ても可哀想でお気の毒)に変化できるんだ。その一方、形状・具象を示す形容詞、例えば、赤い・高い、は意味の変化が起きようがないというわけ。 君:ほほほ、もうひとつ、心情・抽象を表す形容詞は自称の気持ちを表す用法がやがて他称の気持ちを表す用法になる、というのが一般という訳ね。人間は自分の気持ちはよくわかるけれど、他人の気持ちはわかり辛いから、逆は、つまりは他人の気持ちはわかるけれど自分の気持ちがわからないという事は有り得ない、とおっしゃりたいのね。実は女は自分の気持ちがわからなくて悩むのよ。ほほほ |
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