大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 歴史

近世・近代におけるヤ行動詞の変遷

戻る

私:昨日は九州方言「みらん」について書いた。
君:古語「みゆ」から口語「みる」に変化したのではなく、元々が古語「みる見」他マ上一もあるわよ。流石にこれとて五段化は抵抗を覚えるわね。
私:その通り。後から気付いた。他マ上一でも抵抗を覚えるのは同感だ。文例とはしては相応しくなかったかも知れない。ならば「もゆ燃」自ヤ下二はどうだろう。明治の言海には「もゆ」はあるが、昭和の大言海には「もゆ」に加え、「もえる(燃ゆの口語)」の記載がある。やったぞ、これでまるわかり、「燃える」は昭和の言葉だ。明治の言葉じゃない。
君:「零戦燃ゆ」柳田邦男のノンフィクションがあって映画化されたわね。

私:戦前あたりは「もゆ」も普通に話されていたのかもしれないね。
君:あら、でも「もゆ」は古語動詞よ。いつの間にか「燃える」に変化したのには訳があるわね。
私:その通り。少しノスタルジックに書けば、遅れてきたヤ行動詞という事かな。
君:遅れてきた、確かにその通り。
私:つまりは中世・近世で連体形で文章を終わる事が多くなり、終止形・連体形の区別が無くなった。というか、実質的には終止形が廃止され連体形が終止形の役割を担う事になる。これが国文法の歴史。言文一致運動もキーワードになり得るだろうが、根本的には、古代・中世の話言葉と近現代の話言葉を比較してみると、★活用語の終止形と連体形が連体形にまとめられて「連体形・終止形の合一化」という止め処もない流れが出現、★形態的な現象としての係り結びがほとんど用いられなくなった事、★主格を表す際に盛んに「が」が用いられるようになった事、等々の事が成書に記載されている。
君:ほほほ、「零戦燃ゆ」はつまりは「燃ゆる零戦」、そして「零戦が燃ゆる」になったのね。
私:おいおい、大事な言葉を忘れていないか。「燃ゆる」は連体形だよ。
君:なるほどね。「零戦が燃ゆる時」、ラストシーンは流石に泣けてくるわね。
私:「燃ゆる運命」でもいいし、「燃ゆる最期」でもいいね。
君:つまりは「燃ゆる、燃ゆる、零戦が燃ゆる・・・」。そして燃えぬ零戦が燃えて「もゆる」が「もえる」に。活用がエ段で統一されるのね。
私:そう、そうやって口語動詞「燃える」自ヤ下一が生まれ、文語「燃ゆ」自ヤ下二は使われなくなった。ヤ行動詞が生まれ変わった瞬間だ。要は方言のメカニズムと同じ事、言葉は言いやすい方向に変化していく。遅れてきたヤ行動詞。それは違うぞという御意見もあろうが、例えばオ段の長音、つまりは「開合の区別」と似たようなメカニズムと同じ感じだね。
君:つまりは口語の力、人々が自然発生的にお使いになったのかしら。明治以降の事だから、言文一致じゃないけれど、小説、文化人、ラジオ、新聞、等々、近代文化の影響というか導きは無かったのかしら。
私:二葉亭四迷とか、噺家・円朝さんとかね。坪内逍遥も出てくる。逍遥は私の住む町・岐阜県可児市の隣町・岐阜県美濃加茂市の人、石碑が建てられている。西周(にし・あまね)という偉人がいらっしゃった事も忘れてはなるまい。
君:上二段活用は3語「おゆ老」「くゆ悔」,「むくゆ報」がさっと出てこないといけないわね。
私:私もすっかり老いてしまい、悔いる人生で、親に報いる事もなく。
君:「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり」、親より長生きするのが一番に親に報いる事ね。ほほほ
まとめ
ヤ行動詞の歴史を紐解けば、「こゆ越」自ヤ下二があり、奈良〜江戸前期です。その一方、「こえる越」下二もあり、室町〜江戸後期となっています。「こえる」に未然形・連用形は無く、活用は「nul nul える・える・えれ・えろ」です。つまりは中世から近世にかけて一部のヤ行動詞の中には終止「ゆ・える」、連体「ゆる・える」、已然「ゆれ・えれ」、命令「えよ(えい)・えろ」の対立があったようです。「もゆ燃」の理論は全てのヤ行動詞に当てはまるわけではないようですね。

ページ先頭に戻る