大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

ひなまつりのわらべ歌

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追記 2021/1/22
以下の通りですが、ユーチューブ動画を発見しました。私が生まれ育った大西村の歌詞とは若干、異なるようです。子供の頃を思い出して懐かしい気持ちでいっぱいです。お金では決して買うことが出来ない幸せ気分を味わってしまいました。村々で多少、歌詞が異なるのは、子供の遊び事は方言量が多い、という方言学の原則が働いているから、とも言えますね。子供は伝承芸能という気持ちはほとんどなく、かってにどんどんと歌詞を好きなように変えていくものだ、と言い換える事も出来るでしょう。

ただし、決して変化しないものがあります。それは飛騨方言の文法、動詞の活用です。歌詞にあります「みしとくれ」は「みせておくれ」の意味です。つまりは飛騨方言では動詞「みせる」の活用は共通語「見せる」他ラ下一のそれとは少し異なるのです。さて文語では「みす見」他サ下ニの活用は「せ/せ/す/する/すれ/せよ」ですね。飛騨方言「みせる」の語幹は「せ」で活用は「せ/し/せる/せる/せれ/せよ・せれ」です。おそらくは「むす蒸」連用形「むして」辺りの「誤れる回帰」から来ている活用でしょうね。要は上一+下一の活用ですが、他にもこのような活用の飛騨方言動詞があるようにも思うのですが、パッと思い出せません。

ここでひとつ、素朴な疑問。つまりは「みせておくれ」が「みしとくれ」ですから「せてお」の三モーラが「しと」に変化しただけの事、つまりは一拍目は母音交替「せ・し」、ついで二拍めと三拍めの連母音が融合、つまりは連母音融合で二拍「てお」が一拍「と」になっただけじゃないの、とお思いのかたがいらっしゃるかもしれません。実は「みしとくれ」でも「みしてくれ」で良いのです。要は語幹が「み」で活用語尾が「し」である事は間違いありません。多分、接続助詞で「みし」が許可されるのは助詞「て」だけです。飛騨方言では「みせに行く」とは言いますが、「みしに行く」とは言わないでしょう。助動詞についても同様です。「みし〜」に接続可なのが過去完了「みした」と願望・希求「みしたがる」辺りです。否定の「ない・ぬ」で内省しますと、「みしぬ」とも「みしない」とは言いませんのでアウトです。その他の助動詞も全てアウトで、つまりはこれらは全て共通語と同じく他ラ下一で活用するようです。

更には飛騨方言の文法では下一動詞の命令形が二種類あるのが特徴です。「見せよ・見せれ」ともに用いられるのも飛騨方言の特徴でしょう。これは下一全般に当てはまる文法で、例えば「おーい、ボールを投げよ!」「おーい、ボールを投げれ!」とは言いますが、「投げろ!」と言ってしまうと、東京語を話す気障な奴という事になりかねないないのです。飛騨方言では「もう遅いから寝よ or 寝れ」などとも言います。

「おぞても」は「おぞうても」の短呼化で、形容詞「おぞい」のウ音便です。「おぞい」は古語「おずし」が訛ったもので、その意味は「よくない、品質が劣る、おんぼろである、みすぼらしい、汚れている」というような感じです。「がんどうち」については別稿の通りです。

追記 2007/2/21
飛騨地方にある有名なわらべ歌といえば、ひなさまみしとくれ、ですよね。わらべ等はこの歌を歌いながら、家々の玄関を訪問して、ひな菓子などのお相伴にあずかる、いわば子供版の無礼講というわけ。大西村のバージョンは、
ひなさま、ひなさま、みしとくれ おぞてもええで、みしとくれ
なのですが、どうもこれは亜流のようですね。ネット情報、あるいは郷土史資料などを調査しますと、
ひなさまみしとくれ おぞてもほめるに
が飛騨地方各地で歌われている正統わらべ歌のようです。意味は、といえば、みしとくれ、は、共通語で、みせてくれ。話は変わりますが、捨ててしまう、という共通語を、しててまう、と言ったり、魚・うお、を、いお、などと言うのが飛騨方言です。ただしこのような口調は戦後には死語化しています。つまりは答えを教えたも同然、戦前からの古い飛騨のわらべ歌、という事なのです。古くは明治時代からの飛騨のわらべ歌でしょう。江戸時代に歌われていたのか、残念ながら筆者の資料からは伺い知る事はできません。

おぞても、とは、歌詞だから四拍になってしまいました。口語では五拍、おぞうても、です。悪い・良くない、という意味の飛騨俚言形容詞・おぞい、があるのですが、飛騨方言では連用形はウ音便になるのです。口語では、おぞくても、と音便無しで話しても飛騨方言のセンスにあいます。

ほめるに、の歌詞は、ほめるのに、という意味です。つまり、接続・の、は省略しても飛騨方言のセンスにあいます。ただし、断定の助動詞・だ、に先行する、接続・の、は飛騨方言では決して省略されません。室町時代あたりの畿内方言の文法をそのまま引き継いでいるのが飛騨方言だからです。つまりは、飛騨方言では、どこそこへいくだ、とは決して言いません。飛騨方言では、どこそこへいくのや、あるいはより飛騨方言らしく撥音便を用いて、いくんや、と言います。

実は私は、大西村の歌しか知らなかったのですが、なんとさる資料に楽譜がありました。すかさず佐七はエレキを握って一発録りをしたのでした。本邦初公開の飛騨のわらべ歌、ひなさまみしとくれ、を佐七がひとりライブで。しゃみしゃっきり。
ひなまつりのわらべ歌
(これを歌いながら家々を訪問します)
Am        Am  C     Am  C  
ひなさま、ひなさまぁ、みしとくれぇ(※)♪♪
ララララ ララソソ   ララミミミー
C            C               Am  C
おぞ(ぅ)ても ええでぇ(※※)、みしとくれぇ ♪♪
ミラ   ソソ ソソソー       ララミミミー

※みしとくれ=見せてくれ 
※※おぞい=おぞましい,みっともない,悪い
    おぞうてもええで=おぞましくてもいいから
歌詞に絶句、これこそなんと、おぞましくも遠慮の無い、下品な歌!今は、もう歌われていないのかも知れませんが、昭和三十年代の飛騨のとある村・大西郷のわらべうた。

これについては一首、飛騨方言俳句を詠んでみました。

ギターをご存じない方へ、Am 、 C と書かれているのは、ギターコードと言われるものです。読み方はそれぞれ、エーマイナー、シー です。左手は所定の指の形をして、右手で六つの弦をジャーンとかき鳴らすとエーマイナーは少し悲しい音色、シーは陽気な音色がでます。

全く弾いた事がない方でも一念発起、小一時間ほど練習すれば、弾けるようになると思います。

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