大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

飛騨方言の下二段動詞の可能表現に関する一考察

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私:飛騨方言では「たぶ食」他バ下二の可能表現「食べることができる」を「食ばる」と言うし、「うう植」他ワ下二「植えられる」は「植わる」、そして「おぼゆ覚」他ヤ下二「覚えられる」は「覚わる」という。「おぼわる」は名古屋でも使う。だからこの下二動詞の四段化可能表現はギア方言と言ってもいいね。
君:沢山の古語の下二動詞があるけれど、それら全ての動詞が四段化可能表現になるわけではないのよね。
私:その通り。方言資料にあるのは上記の三つの動詞くらい。「おぼわる」については別稿飛騨方言動詞の可能表現「おぼわる」のパウル説「おぼわる」・ソシュール学的立場も参考までに。先ほどは日本語逆引き辞典をやぶにらみしながら下一動詞を片っ端から内省してみたが、やはり該当動詞はほとんどない、という事に気づかされた。
君:日本語逆引き辞典には、そもそもが日常会話ではほとんど使わないような動詞に至るまで細大漏らさず記載してあるから、当然と言えば当然の結果よ。
私:ああ、その通りだね。方言は生活語彙だからね。日常の言語生活の中での重なり語数が重要という事だ。それでも先ほどは内省実験をして、ひとつの事に気づいた。もともとが自動詞である下二動詞では四段化による可能表現が当てはまらないんだ。
君:例えば。
私:「さかゆ栄」自ヤ下ニ。「栄えることができる」という日本語自身がナンセンスに近いね。「さかえる」とはそれ以下の言葉でもそれ以上の言葉でもない。あるいはドンドンと繁栄していくという意味である以上、「栄える事ができる」のは自明の理であって、「栄える」という動詞自体に「栄えることができる」という意味を内包している。従って、この動詞は自動詞だから、という理由以前の議論として、そもそもが動詞「栄える」には可能表現が必要ない。語源としては「さか」は「さく幸」即ち「しあわせに」という副詞の状態語で繁栄・隆盛の意を表し、それに接尾語「ゆ」のついたもの。更には副詞「さく」は「さきく幸」の上代東国語形。つまりは「さかゆ栄」の語源は「さきくゆ幸」。
君:結論としては「さかえる」に対応する音韻「さかわる」は存在せず。
私:そのようだね。元々の下二動詞が自動詞であるか他動詞であるかで、四段化可能表現が存在するかしないかがまず決まる。自動詞なら存在しないし、他動詞であっても共通語では可能表現というよりは自動詞化の形になってしまっているものが多い。
君:例えば。
私:決める・決まる、詰める・詰まる、等々、例は幾らでもある。こうなってくると途端に僕の妄想が始まってしまうが、このような日本語の動詞はすべて可能の助動詞「らる」から変化したのだろうか。「決めらる・決まる」「詰めらる・詰まる」。
君:やれやれ、キチンと古語を勉強してくださいね。「きむ極」他マ下二から「決まる」のほうがスッキリしているし、「つむ詰」には他マ下二と他マ四の二種類の活用があり、「つまる詰」自ラ四は「つむ詰」他マ下二の自動詞形で「つむ詰」他マ四より古くからある動詞。「つむ詰」他マ四の可能表現を作るとなると、未然形「つま」+可能の助動詞「る」、すなわち「つまる」の出来上がり。ほほほ
私:なるほどそうか。上代から自動詞・他動詞の音韻対応もあったようだね。例えば、また次なる妄想だが、「つむ詰」他マ四の未然形「つま」+可能の助動詞「る」で生成される「つまる」が出来た以前に元々「つまる詰」自ラ四が存在した。つまりは自動詞がまずは存在し、後の世に可能動詞の表現が出て来た、あるいは四段動詞の出現と言い換えてもいい。「たぶ食」や「うう植」に四段動詞が出現せず下二のままだったのは何故だろう。
君:簡単な理屈よ。あなたが私にあれこれ屁理屈を言わせるために方言の神様がそのような日本語をお作りになったという事なのよ。やれやれの年明けだわ。2021年、明けましておめでとう。

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