大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

「おぼわる」・ソシュール学的立場

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私:「おぼわる」という飛騨方言がパウルの公式から出来たというのは、やはり、ちょっと違うような気がするんだけどね。
君:あら、何かまた新しい面白い説?
私:そうでもないが言語学の父・ソシュール、ソシュール説(その一,その二,その三,その四)、からすると、やはり四段未然形+可能の助動詞「る」のような気がするのだけど。
君:始めにシニフィエありきだから、「おぼわる」という動詞の意味は「覚える事が出来る」という意味しかない、これがどうしても譲れないのよね。
私:うん。確かに「自然におぼわる」という言い方もあるが、そのような場合に僕は「身につく」とか「会得する」のような言い方しかしないし、僕自身は「おぼわる」は可能の意味でしか使わないんだ。
君:ほほほ、ではシニフィアンは国文法に従って五段活用する、という事なのよね。
私:その通り。つまりは語幹「おぼわ」がシニフィエで、「覚えることが出来る」という唯一の意味、そして助動詞「る」がシニフィアン。さらには僕の頭の構造は「シニフィエ・おぼわ」+「シニフィアン・る」=新たなシニフィアン「おぼわる」という風になっているのではないだろうか。あるいは助動詞活用という事には立派な意味があるわけだから、「シニフィエ・おぼわ」+「シニフィエ・る」=たったひとつの「シニフィエ・おぼわる」=新たなシニフィアン「おぼわる」、という事なのかも知れない。
君:パウルの公式は例外が多すぎるし、未然形説には例外がありません、これらをすべてソシュール学説で説明できます、と言いたいのね。
私:まあね。パウルの公式は、そもそもがシニフィエが無い時に使ったり、逆に、シニフィアンが無い時に使う公式だよね。
君:例えば?
私:昔から赤い、青いと言っていたが、平安時代は黄色いとは言わなかった。古代から「黄色の」というシニフィアンがあったが、それは現代人の「黄色い」というシニフィエに相当する。つまりは室町まで「黄色い」というシニフィアンは無かった。現代から中世を眺めれば、中世には「黄色い」というシニフィエと「黄色の」というシニフィアンがあった。現代においては「黄色い」と言っても「黄色の」と言ってもどちらでも通じるから、現代は「黄色い」というシニフィエに「黄色い・黄色の」の二つのシニフィアンが存在し、それはパウルの公式からも導き出される、のような事かな。
君:「ショッキングピンクい」といえば新たなシニフィアンがパウルの公式から作られるという意味よね。でも驚愕の薄桃色がどんなものかは誰もが知っている事だから、初めからこの色のシニフィエは存在しているわよ。
業平:うーんそうか。さきほどのは間違いか。撤回します。そもそもが、ああ・あの色ね、という事で必ず色のシニフィエは存在するので、シニフィエが無い時という事は有り得ない。概念の無いものをそもそもが人間は言葉に発しない。心に生まれた概念をなんとかしてシニフィアンにて君の心に訴える。言語学も、国語学も、方言学もひたぶるにシニフィアンを増やさで、の学問かな。・・世の中にたえて/方言/なかりせば/愚生の心/のどけからまし・・嗚呼、僕はボキャ貧。
伊勢の君:言外の意味・シニフィエを考える事こそ重要よ。・・名古屋大/みじかき籍の/ふしの間も/逢はで/この世を/過ぐしてよ/とや・・シニフィアンひとつに揺らぐシニフィエ、お互いの切ないまでの青春時代よね。

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