円形広場  
 俳句紀行



南サハリン紀行(樺太)

2018年8月10日〜8月14日まで、かつて日本の植民地であった南サハリンを訪ねた。目的は、次の3点である。
 @樺太俳句発祥の地を訪れること
A宮沢賢治の足跡を訪ねること。
B樺太俳句を培った風土を少しでも肌で感じること。

本当は、7月に行く予定であったが、チャーター便の都合で8月になってしまった。
そのため、賢治が乗った線路を行くことができなくなったしまった。しかし、そのおかげで賢治樺太に行った大正12年(1923年)8月3日〜8月7日に近い日程になった。

 成田からオホーツク航空のチャーター便で、州都ユジノサハリンスク(豊原)へ行き、そこを拠点に、ドリンスク(落合)、スタロドゥプスコエ(栄浜)、コルサコフ(大泊)、
ホルムスク(真岡)
を訊ねた。実り多い旅であった。

これから、遅ればせながら、写真と俳句を交え2018年8月のサハリンをご案内します。
俳句は作者名のないものは、武馬のものです。



下のキリル文字はユジノサハリンスクと読みます。今の名前です。



旧植民地、南樺太の下のほうの地図
通った道とあるのは、私が通った道です。
括弧内は植民地時代地名です。
中心が樺太庁のあった豊原(とよはら)です。
現在はサハリン州の州都ユジノサハリンスクです。

ユジノサハリンスク(豊原)は、札幌を手本にして作られた街ですので、
札幌に似ています。
では、しばし豊原見物にでかけましょう。



ソ連崩壊後に出来たロシア正教会


ななかまどの街路樹
樺太俳句の父、伊藤凍魚の句です。凍魚は、原石鼎門下です。
戦後は、北海道に移り、飯田蛇笏に師事しました。
*明治31(1898)年〜昭和38(1963)年


駅前の郵便局
植民地時代と同じところにあります。

北海道から樺太に移った男女が繰り広げる愛と憎しみと苦しみの物語『天北原野』は、昭和前期の樺太の雰囲気をよく描いている小説でもあります。

ヒロイン貴乃が豊原郵便局に眼を向ける場面です。
「貴乃はそっと席を立って廊下に出た。足の裏がひやりと冷たい。通りを隔てて、がっちりとした石造の郵便局が窓から見えた。午後の薄日が淡々と差し、小雪が舞っている。…ふいに悲しみがこみあげた。貴乃はハンカチを目に押しあて、声をころして泣いた。」
(三浦綾子『天北原野』(上)、新潮文庫)


王子製紙豊原工場跡
樺太の産業の根幹は製紙業でした。

宮沢賢治は、前年亡くなった最愛の妹トシの面影を求め、大正12(1923)年7月31日(火)に花巻を発ち、日本の最北の地、樺太に向かいました。
8月3日(金)午前7時半に大泊(コルサコフ)港に到着。汽車で豊原へ。
その足で、王子製紙豊原工場に細越健を訪ね、教え子の就職を頼みました。


旧北海道拓殖銀行豊原支店。今は、美術館です。


駅前大通り公園に立つレーニン像

後ろの白い建物は、ユジノサハリンスク駅
旧豊原駅です。同じところにあります。

次に市内にあるサハリン州立郷土博物館を見学します。
ここはユジノサハリンスクのランドマークで、結婚式を挙げた二人は、ここで記念写真を撮るのだそうです。この日も何組か来ていました。


これは、昭和12(1937)年に作られた旧樺太庁博物館です。
帝冠様式と言われる建物です。

ここに日露の国境石(天1号標石)があります。


裏(ロシア側)は、HPのトップページを見てください。

チェーホフがサハリンの流刑囚の取材に来た当時の独房が庭に復元されていました。
19世紀、サハリンは罪囚植民地だったのです。





日本には残っていないものも、庭に展示されていました。


奉安殿

もちろん中には何もありませんでした。

まだまだ色々ありましたが、これくらいにして街に出ましょう。







そして、駅に行きましょう。賢治がオホーツク海を見に出発した豊原駅へ。


ユジノサハリンスク駅(豊原駅)
ВОКЗАЛ(バグザール)はロシア語で駅です。
左の時計はユジノサハリンスク時間、右はモスクワ時間です。
中へ入ってみましょう。


X線で荷物検査のあと駅の中に入ります。本来写真は×です。


駅構内
線路の幅は、この写真のようにずっと日本時代のままでしたが、
現在、広軌に変更中です。
賢治は、大正12(1923)年8月4日(土)早朝、ここから、汽車で、
右に鈴谷山脈を見ながら、鈴谷平原を走り、落合(ドリンスク)を通って
栄浜(スタロドゥブスコエ)まで行きました。




鈴谷山脈

やなぎらんやあかつめぐさのの群落
松脂岩薄片のけむりがただよひ
鈴谷山脈は光霧か雲かわからない
(宮沢賢治「樺太鉄道」)


栄浜の海岸
当時、鉄道で行ける日本の最北の地でした。
海は、オホーツク海です。

わたくしが樺太のひとのいない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
(宮沢賢治「オホーツク挽歌」)

オホーツク海は山口誓子の句でも有名です。

ここは栄浜の琥珀海岸と言われところです。
その名のとおりここで琥珀を拾いました。



次に、『銀河鉄道の夜』の白鳥の停車場との関連を言われる白鳥湖にご案内しましょう。
栄浜の近くです。
バスを降りて藪の中を歩きます。


やなぎらん

いちめんのやなぎらんの群落が
光ともやの紫いろの花をつけ
遠くから近くからけむつてゐる
(宮沢賢治「鈴谷平原」


道端のあかつめぐさは少し汚れていた。

そして、いよいよ白鳥湖が見えました。


ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニの言葉))



湿原には薊やはまなすが咲いていました。7月は、一面やなぎらんだったそうです。

白鳥湖を見たあと、ドリンスク((落合)にもどりました。
落合は、樺太俳句発祥の地です。



ドリンスク駅の扉です。工事中で閉鎖されていました。


ドリンスク駅構内。狭軌を広軌に変える工事中だそうです。

駅を見たあと王子製紙落合工場跡へ向かいました。



立ちならぶ煙突五本風光る  山本一掬(昭和8年)

煙突は、4本しかありませんでした。


王子製紙落合工場跡

大正13(1924)年3月4日、ここ王子製紙落合工場(当時、冨士製紙)の工場倶楽部で、
第1回の句会が開かれました。事実上の樺太俳句の始まりです。
参加者は、伊藤凍魚(当時、余子)、山本一掬、西原蛍雨ら9人でした。
席題は氷下魚(かんかい)、余寒。

春寒の玻璃窓に倚ればくもりけり  余子
水辺や木木みな余寒尽きし色  一掬
犬の皮着て氷下魚を漁り居り  蛍雨

この夜の句会がもとになって
伊藤凍魚を中心とする俳誌『氷下魚』の刊行が始まりました。
この『氷下魚』が樺太の俳句をリードして行くことになります。


『氷下魚』昭和17年11月号

『氷下魚』の表3。落合町の名が見える。

次は、いよいよ大泊(おおどまり。コルサコフ)です。


コルサコフ(大泊)港の日本時代にできた大桟橋を、展望台(神楽岡)から望む。
港は冬期は,結氷。海はアニワ(亜庭)湾です。

山口誓子は、明治45(1912)年(12歳)から大正4(1915)年(17歳)まで樺太在住。
大正3年、大泊中学校に入学。
句は大正15(1926)年のもの。

上田純煌は、昭和2年から昭和22年まで樺太在住。教育者。松根東洋城門下。
句は昭和13(1938)年のもの。

誓子の「凍港」の地、大泊を背景に記念写真を撮りました。

左隅の真ん中あたりが王子製紙大泊工場跡です。
右隅の真ん中あたりがアニワ湾です。


ここはかつて神楽岡と呼ばれ、亜庭神社のあった小高い丘です。
ここからコルサコフの街とアニワ湾が一望のもとに見えます。

神楽岡は、残留ロシア人を父に持つ林一と姉のロシア人の容貌を持つジナイーダとの愛憎の物語l『中央高地』(宮内寒弥、昭和10年)の舞台となったところです。

この神楽岡には、ロシア時代コルサーコフスク監獄のあったところです。チェーホフの
『サハリン島』にも出来てきます。
「コルサコーフスク監獄は官衛地の中で最も高燥な場所を占めてゐて、恐らく一ばんの健康地であらう。……碧々とした海原と遥かな水平線とが望まれ、そのためかこゝはばかに広々とした感じである。」(上巻、259頁)


神楽岡のふもとのかつての本町西二条通り。
ここをまっすぐに行くと誓子の学んだ大泊中学校があった。


旧北海道拓殖銀行大泊支店。補修工事中でした。

大泊から少し海沿いに東に行くと丘の上に「遠征軍上陸記念碑」がありました。


日露戦争の時の樺太遠征軍の上陸記念碑です。横倒しのまま置かれています。

この遠征軍の様子は直木賞の川越宗一『熱源』第4章「日出づる国」に出てきます。
小説に出てくる主人公が住むトンナイチャ村は、日本時代は富内(とんない)と呼ばれ、ここから4キロほど北に行った、オホーツク海に面したところです。

『中央高地』『熱源』を読むにつけ、チェーホフが樺太文学の父と呼ばれるのはよくわかります。

上陸記念碑の丘には蝦夷丹生の花が咲いていました。


野沢一魯は、『氷下魚』同人で、樺太の俳人です。

いよいよ最後の目的地、間宮海峡側の真岡(まおか、ホルムスク)です。

途中、熊笹峠を通りました。
昭和20年8月20日から22日にかけて、
真岡に上陸したソ連軍との激戦のあったところです。

真岡は、ソ連軍の艦砲射撃と侵攻によって市街の大半が焼け、
自決者、死傷者約1010人を出した所です。

山の向こうが真岡です。


熊笹峠
立派な戦勝記念碑と日本軍のトーチカを復元したものがありました。

大正14(1925)年8月15日、
北原白秋たちは、樺太観光団(下記参照)から外れ、
自動車による真岡から豊原への樺太横断の旅の途中
ここを通りました。

「ここは何という峠だね。」
「熊笹峠です。」と運転手が答えた。
なるほど、熊笹の大なだれの波のうねりは驚くべく光滑に、また底に暗んで、
しかもいかにも寝よげな絨氈の青みを重ねた。
(北原白秋『フレップ・トリップ』岩波文庫、2007年。原本は昭和3年アルス社刊行)

ホルムスク北駅に着きました。
狭軌から広軌への変更の工事が進んでいます。


ホルムスク北駅
次がかつての野田、今のチェーホフ駅。
たとえ行かなくても、切符だけは買いました。レシートのような切符でした。


ХОЛМСК(ホルムスク)北駅から
ЧЕХОВ(チェーホフ)までは、
79.20ルーブル(160円)。


ホームの駅名表示板(ホルムスク北駅)

ホルムスク郵便局です。



昭和20年8月20日午前6時半ごろ、
真岡郵便局の女性交換手9人が服毒自殺ところです。
もとの郵便局の建物は、戦後火事で焼け、そのあとに建て直されたのが、
今のホルムスク郵便局です。

次は、王子製紙真岡工場跡です。


王子製紙真岡工場跡

白秋は、鉄道省主催の樺太観光j団に加わり、
大正14年8月7日横浜港を出港。
8月21日の稚内解散までの樺太の旅を楽しみました。
橋本多佳子も夫・豊次郎と共に参加しています。
旅行記『フレッド・トリップ』には、「H君夫妻」として出てきます。
「夫人は先ず船中一の美人であろう」とあります。

曇り来し昆布干場の野菊かな  多佳子

『フレップ・トリップ』には、真岡工場見学のことも書かれています。
最後の包装された紙が出てくるところです

「また紙包みがくる。パタパタ、トントン、すうっ、ガラガラガラガラである。
また紙包みが来る。
また来る。
また来る
……」


間宮海峡(韃靼海峡)
昭和17年9月9日の俳句聯盟真岡支部例会の句

間宮海峡を見て再びユジノサハリンスクに戻り
サハリンのたびは終りです。


ユジノサハリンスク



おわり




アジャンタ・エローラ紀行(インド) 「「


 2015年5月2日〜5月6日まで、西インドのアジャンタ、エローラにある石窟寺院を訪ねた。
 旅行直前に、私たちののるはずの飛行機の便が一便突如廃止されたので、とんだ弾丸ツアーになってしまった。
                         
 行程は、成田→デリー→ムンバイ→オーランガバード→アジャンタ、エローラ→オーランガバード→デリー→アグラ→デリー→成田
                         

 2015年5月2日
午後10時


ムンバイ空港


空港から出ると、むせかえるほどの夾竹桃の花の匂い。

 
5月3日
午前4時


ムンバイ空港国内線

 
構内のバスに乗って
オーランガバード行の飛行機へ

行けども行けども飛行機に
着かない。


退屈なので同乗の空港職員を
こっそりスケッチ

 

ボンベイの女が絡む銀の棒

 
午前6時


薄明のオーランガバードに到着

晴れ


午前9時34分

アジャンンタ石窟

BC2世紀〜AD8世紀


午前9時39分

アジャンンタ第1窟
ヴィハーラ(僧の住まい

5世紀
大乗仏教期


写真を撮って欲しいと言われ撮ってあげました。インドの人は写されるのが好なようです。

アジャンンタ第1窟前にて



第1窟ファサード頭注

中央に説法する釈迦、
左右に飛天
支えるのは豊饒神ヤクシャ


第1窟内部

1902(明治35)年、第1窟で蓮華手菩薩を見た岡倉天心は、それに法隆寺金堂壁画を見た。そして「これを見ただけでもインドへ来た甲斐あった」と言い、「Asia is one.」を確信した。アジアは、美によって一つなのである。

右手に蓮華を持つ
第1窟
蓮華手
菩薩

身体をS字形にくねらせる
三曲法
によって
描かれている。




法隆寺
金堂壁画
勢至菩薩

蓮華手菩薩同様
三曲法
によって
描かれている。

三曲法は像に動きと立体性を持たせる。
そして、生身を現出させる。


第1窟より見たアジャンタ石窟

かつて訪れた新疆ウイグル自治区の
ベゼクリク千仏洞(右の写真)
を思った。

6世紀〜14世紀

2005年
5月


ベゼクリク千仏洞(右の写真)

そして
敦煌(莫高窟)
のことも。

3,4世紀〜13,14世紀


敦煌(莫高窟)



沙州五月人民元を折り畳む

右の写真は2016年5月に訪れた洛陽近郊の龍門の石窟
前の川は伊水。
493年(北魏、孝文帝)〜756年(唐、玄宗皇帝)

明治26(1893)年、岡倉天心は、龍門の岩壁に彫られた沢山の素晴らしい仏像を見て、「諸仏の妙相忽ちにして歓喜の声を発せしむ」と、大喜びしたのである。
天心は「支那旅行日記」(『岡倉天心全集5』平凡社)で、龍門の賓陽中洞(右の写真)ついて
「此(この)洞六間四方高サ四丈位。中央釈迦三丈位。前ニ獅子アリ」と述べ、続けて、


*釈迦如来坐像(北魏)。左右に脇侍(菩薩)あり。右手は施無畏印、左手は与願印。この組み合わせを説法印という。


…天井の神仙法隆寺壁画ト様薄肉
ニて十二天女アリ」と述べている。
*同様薄肉(うすにく)色


アジャンタ第4窟
入口


彫刻が素晴らしい。


第4窟
ヴィハーラ(僧の住まい)

断層が横切っており未完成だった。

第4窟
釈迦坐像

脇侍の仏達は、半ば以上岩に埋もれている。彼らはわずかに首を傾げていかにも悲しそうである。

*釈迦の手は、転法輪印

エレファントゲート(左)
アジャンタを訪れた玄奘三蔵は、
『大唐西域記』(水谷真成訳、平凡社)にこう記している。

伽藍の門の外の南北左右にはそれぞれ一つの石象がある。

エレファントゲート(右)
玄奘三蔵は続けて

「この象は時に大きな声で吼えることがあり、大地はそれで震動する」と言うことである。

象の門を通り第16窟へ


第19窟
仏塔崇拝から仏像崇拝への過渡期のチャイティヤ(祈りの御堂)
天井はチーク材を擬している。

玄奘三蔵が行った時は、これよりも巨大な高さ100尺余の石窟があり、七重の石の蓋(かさ)が、空中に浮かんでいたと
『大唐西域記』にある。


第24窟
未完成のヴィハーラ(僧の住まい)
硬い岩の層に突き当ったのか?

第26窟
チャイティヤ(祈りの御堂)

正面入口





第26窟

インド最大の涅槃仏




第26窟

仏陀を誘惑する魔王の娘すら悲しげであった。岩から出現したが、未だ岩から自由になれぬ我が身を思い。



第26窟
降魔成道の浮彫




翌日5月4日晴れ

早朝、ホテルを出発しエローラへ。
途中、壺屋を見た。

炎天に壺屋が積んだ壺・亞細亞

デカン
高原を
エローラへ


途中見たダウラターバードの城砦都市
1187年

午前8時49分

エローラ石窟

午前8時49分

第1〜5窟
を望む。

*第1〜12窟までは大乗仏教窟。
7〜8世紀。アジャンタの続き。

第10窟

エローラ唯一のチャイティア窟(祈りの御堂)


*転法輪印の釈迦

第12窟

3層のヴィハーラ(僧の住まい)

第12窟

3層のヴィハーラ(僧の住まい)

同じ年の8月に、姫路の書写山圓教寺の食堂(修行僧の寝食のための建物)を見たとき、この第12窟を思ったのである。(写真)


天台宗書写山圓教寺の食堂

*承安4(1174)年創建

書写山圓教寺の食堂の内部

第12窟の内部

第12窟の壁に彫られた釈迦如来坐像

*転法輪印

第12窟の壁に彫られた釈迦如来坐像

*手の形(印相)はよくわからない。

第16窟
エローラのハイライト
カイラーサナータ寺院(ヒンドゥー教)
*8世紀の中頃から、100年かけて岩を掘り抜いた。

スタンバ

ナンディー堂の両脇に立つ方形の石柱(高さ17m)

*寺院の大きさを分かっていただけると思う。


カイラーサナータ寺院はヒンドゥー教の神シヴァ神を祀る寺院。シヴァの象徴リンガ(男根)が本殿に安置されている。




リンガ(男根)が安置されている部屋(本殿)の後ろに回ると、そこには素晴らしい彫像が彫り出されていた。中央上は飛天、
下の神々はすべてシヴァ神だと思われる。







三曲法によって彫られたシヴァ神


*何気に悲しげに見える。

飛天は岩から彫り出されたものであるが、未だ岩の一部である。

回廊

岩に半ば以上埋もれたままの神々の悲しげな表情。

シヴァの住むカイラーサナータ山を揺るがす多手の魔神ラーヴァナ

魔神ラーヴァナ

もう一歩で岩から自由になれるのになれない悲哀の表情を現わしているかのようだ。

法隆寺釈迦三尊像

岩から自由になった彫像の安らかで威厳のある表情を見よ。
半肉彫りの像の衣文を見ていると、かつて石窟の岩に彫られていたころの仏像の姿が見えてくるようである。

*釈迦三尊像の源流、先の北魏の石窟の仏像を思い出してほしい


永遠の
インドは今日も
振り向かず

久仁裕



終り




*ジャイナ教の石窟は省きました。




安南紀行「「


 2011年4月27日〜5月1日まで、林芙美子の『浮雲』(初版1951年、六興出版))の跡を、中部ベトナムに訪ね、その足で、北部まで旅した。
 「安南紀行」と題したのは、『浮雲』では、日本軍占領下の仏印(ベトナム)を安南と呼んでいるからである。
 『浮雲』は、占領下ベトナムの南部の高原の町ダラットで出会ったタイピスト幸田ゆき子と農林省の山林官富岡兼吾の愛の物語である。話は、終戦直後の富岡の赴任先屋久島でのゆき子の死で終わる。
                         
 安南紀行をごらんになり、興味を持たれた方は、新潮文庫に入っているので読まれたい。以下の『浮雲』からの引用は、すべて新潮文庫版からである。
                         
 また、折にふれ、私の俳句と他の文学作品も、写真に添えて紹介したい。
 なお今回も、文学作品と私の旅の季節が合わないことはご了承願いたい。
                         
 参考までに、タイピストとしてダラットに赴任するゆき子の旅程を紹介しよう。
 旅程東京−海防(ハイフォン)−河内(ハノイ)−ビン−ユエ−ツウフン※−サイゴン−ダラット(昭和18年10月半ば過ぎ到着

                        [注※]
 新潮文庫の『浮雲』では「海辺のツウフン駅から、一行はサイゴン行きの汽車へ乗った」とあったので、「ツウフン」は「ツウラン」(現在のダナン)の誤植かと疑った。そこで、初版本および「昭和文学全集19 林芙美子集」(1953年、角川書店)に当たってみたが、いずれも「ツウフン」であった。よって、今のところは「ツウフン」としておく。


 


林芙美子『浮雲』初版本
(1951年、六興出版)

美しい女が向うユエの町
               久仁裕


フエ:『浮雲』では「ユエ」。フランス語風の言い方。漢名は順化(トゥアンホア)。
   
2011年4月27日午後9時
   フエのフバイ空港

紫の花の骸を気に留める
                久仁裕


ホテルからフォン河(『浮雲』では、ユエ河)まで散歩に出発。

   2011年4月28日 午前7時
   フエの街路樹


「日本の兵隊は貧弱であった。・・・安南人や、ときたま通る仏蘭西人の姿の方が、街を背景にしてはぴったりしていた。」(『浮雲』)






「第二日目はユエで泊まった。ここでも、一行はグランド・ホテルに旅装をといた。日本の兵隊がかなり駐屯している。」(『浮雲』)

サイゴン・モリンホテル。『浮雲』の「グランド・ホテル」と思われる。


「ホテルの前に広いユエ河が流れていた。クレマンソウ橋が近い。ゆき子はこんなところまで、日本軍が進駐して来ている事が信じられない気がしていた。」(『浮雲』)

         チャンティエン橋→
『浮雲』の「クレマンソウ橋」と思われる。クレマンソウは第一次世界大戦中のフランスの首相。


チャンティエン橋を、南国の果物を運ぶ女性。

       
ゆらゆらと渡る世間をマンゴ売り
                久仁裕

フォン河(香江)は水のきれいな川だった。
しかし、『浮雲』では雨期である。
「河は黄濁して水量も多く、なまぐさい河風を朝の街へ吹き着けていた」となっている。

チャンティエン橋からフースアン橋を望む。

黒蝶の横滑りして飛ぶ玉座
               久仁裕


阮(グエン)朝(1802〜1945年)の王宮の門(午門)。
フエは越南(ベトナム)の首都であった。

「赤煉瓦の王城のあたりでは、若い安南の女学生が、だんだらの靴下をはいて、フットボールをしているのなぞ、ゆき子には珍しい眺めだった。」(『浮雲)』

王宮の花屑匂う女学生
               久仁裕


4月28日、フエからホイアンまで、国道1号線を南下する。

沢木耕太郎は北上した。(『1号線を北上せよ』)




沢木耕太郎は『1号線を北上せよ』では、1号線の難所、ハイヴァン峠を越えた。「恐かったのは、その峠からの下り道だった。」

私は、2005年に開通した6.3kmのトンネルを抜けた。バイクは走れない。すべてトラックに積まれて抜ける。


ダナン(昔はツウランと言われ、『浮雲』でもそう呼ばれている)


遠くにダナンを望む。
古くから国際貿易港として栄えた。
中部最大の都市。

4月29日、田圃の中の日本人・谷弥次郎兵衛の墓を通過。

「ねえ、あなた、覚えている? ツウランのそばの何とかって、日本人の墓地にお参りした事もあったでしょ?」・・・
「あの町、何て云ったかしら・・・」
「ヘイホ」って町かい?」(『浮雲』)

ホイアンへ行く途中でチャンパ王国の聖域ミーソン遺跡に立ち寄る。
アンコール遺跡と同じインド化された世界だ。


ヒンズー教のシヴァ神を祀る祠堂9世紀ごろ
            

 サンスクリット
        
  の碑文   
シヴァ神の象徴リンガ(男根)とヨニ(女性器)           
 

ホイアンの福木の街路樹と家並。ホイアンは『浮雲』では「ヘイホ」。ヨーロッパ人がファイフォと呼んだ古い港町。
「並木はフクギって樹だったでしょう? こんもりした老樹で、自動車をとめて休んでいると、子供達が、トンボ・ヤポネーゼってよって来たわね。」(『浮雲』)

「ヘイホっていい町だったわ、道が狭くて、やっと自動車が一台通れる幅だったわね。マッチ箱を二つずつ重ねたような白壁塗りの家並みがつづいて、ほら、日本橋って、屋根のある小さな橋があったわ。」(『浮雲』)


突き当りに見えるのが、1593年、この地の日本人によって架けられた来遠橋(「日本橋」と呼ばれている

「・・・ほら、日本橋って、屋根のある小さな橋があったわ。あすこで写真を加野さんが撮ったけど、あの写真も持って帰れなかったし、でも、あの時の私達ってぜいたくね。」(『浮雲』

『浮雲』の追跡はここで終わる。
幸田ゆき子は、終戦後、海防(ハ

イフォン)の収容所から敦賀の収容所に移り、東京へ出、富岡と再会することになる。舞台は日本だ。

         ホイアンの市場→  肉桂やコブラ酒も売っていた。


コブラ酒のコブラと言えば死んでいた               久仁裕


ダナン空港。ハノイ便を待つ。



ゆっくりと夕焼が来る囁囁記
                久仁裕


人々の口元照らすハノイの灯
                久仁裕




ハノイ。午後9時。

「カフェ・デン(ブラックコーヒー)が飲みたくなりました。湖は薄墨で描かれたように淡く霞んでいました。(辺見庸「葬列」『ハノイ挽歌』)


ホアンキエム湖(ハノイ)
4月30日 午前7時32分

ハノイ市内を走るバス。『1号線を北上せよ』には、8年前のベトナムのバスのすさまじさが詳しく書かれている。
今も基本的にはあまり変わらないようだ。

漆黒の手帳に挟む首都の風
                久仁裕


       ハロン湾



南国の紅旗久しく星一つ
                久仁裕


       



  さりげなく
  ビール飲み干す
  ハロン湾
                久仁裕

       




ハロン湾は降龍(ハロン)の湾。
藍碧の海から龍が躍り出るかのようだ。
                

                    



ハノイで見た水上人形劇




−終わり−




アジャンタ・エローラ紀行(インド) 「「


 2015年5月2日〜5月6日まで、西インドのアジャンタ、エローラにある石窟寺院を訪ねた。
 旅行直前に、私たちののるはずの飛行機の便が一便突如廃止されたので、とんだ弾丸ツアーになってしまった。
                         
 行程は、成田→デリー→ムンバイ→オーランガバード→アジャンタ、エローラ→オーランガバード→デリー→アグラ→デリー→成田
                         

 2015年5月2日
午後10時


ムンバイ空港


空港から出ると、むせかえるほどの夾竹桃の花の匂い。

 
5月3日
午前4時


ムンバイ空港国内線

 
構内のバスに乗って
オーランガバード行の飛行機へ

行けども行けども飛行機に
着かない。


退屈なので同乗の空港職員を
こっそりスケッチ

 

ボンベイの女が絡む銀の棒

 
午前6時


薄明のオーランガバードに到着

晴れ


午前9時34分

アジャンンタ石窟

BC2世紀〜AD8世紀


午前9時39分

アジャンンタ第1窟
ヴィハーラ(僧の住まい

5世紀
大乗仏教期


写真を撮って欲しいと言われ撮ってあげました。インドの人は写されるのが好なようです。

アジャンンタ第1窟前にて



第1窟ファサード頭注

中央に説法する釈迦、
左右に飛天
支えるのは豊饒神ヤクシャ


第1窟内部

1902(明治35)年、第1窟で蓮華手菩薩を見た岡倉天心は、それに法隆寺金堂壁画を見た。そして「これを見ただけでもインドへ来た甲斐あった」と言い、「Asia is one.」を確信した。アジアは、美によって一つなのである。

右手に蓮華を持つ
第1窟
蓮華手
菩薩

身体をS字形にくねらせる
三曲法
によって
描かれている。




法隆寺
金堂壁画
勢至菩薩

蓮華手菩薩同様
三曲法
によって
描かれている。

三曲法は像に動きと立体性を持たせる。
そして、生身を現出させる。


第1窟より見たアジャンタ石窟

かつて訪れた新疆ウイグル自治区の
ベゼクリク千仏洞(右の写真)
を思った。

6世紀〜14世紀

2005年
5月


ベゼクリク千仏洞(右の写真)

そして
敦煌(莫高窟)
のことも。

3,4世紀〜13,14世紀


敦煌(莫高窟)



沙州五月人民元を折り畳む

右の写真は2016年5月に訪れた洛陽近郊の龍門の石窟
前の川は伊水。
493年(北魏、孝文帝)〜756年(唐、玄宗皇帝)

明治26(1893)年、岡倉天心は、龍門の岩壁に彫られた沢山の素晴らしい仏像を見て、「諸仏の妙相忽ちにして歓喜の声を発せしむ」と、大喜びしたのである。
天心は「支那旅行日記」(『岡倉天心全集5』平凡社)で、龍門の賓陽中洞(右の写真)ついて
「此(この)洞六間四方高サ四丈位。中央釈迦三丈位。前ニ獅子アリ」と述べ、続けて、


*釈迦如来坐像(北魏)。左右に脇侍(菩薩)あり。右手は施無畏印、左手は与願印。この組み合わせを説法印という。


…天井の神仙法隆寺壁画ト様薄肉
ニて十二天女アリ」と述べている。
*同様薄肉(うすにく)色


アジャンタ第4窟
入口


彫刻が素晴らしい。


第4窟
ヴィハーラ(僧の住まい)

断層が横切っており未完成だった。

第4窟
釈迦坐像

脇侍の仏達は、半ば以上岩に埋もれている。彼らはわずかに首を傾げていかにも悲しそうである。

*釈迦の手は、転法輪印

エレファントゲート(左)
アジャンタを訪れた玄奘三蔵は、
『大唐西域記』(水谷真成訳、平凡社)にこう記している。

伽藍の門の外の南北左右にはそれぞれ一つの石象がある。

エレファントゲート(右)
玄奘三蔵は続けて

「この象は時に大きな声で吼えることがあり、大地はそれで震動する」と言うことである。

象の門を通り第16窟へ


第19窟
仏塔崇拝から仏像崇拝への過渡期のチャイティヤ(祈りの御堂)
天井はチーク材を擬している。

玄奘三蔵が行った時は、これよりも巨大な高さ100尺余の石窟があり、七重の石の蓋(かさ)が、空中に浮かんでいたと
『大唐西域記』にある。


第24窟
未完成のヴィハーラ(僧の住まい)
硬い岩の層に突き当ったのか?

第26窟
チャイティヤ(祈りの御堂)

正面入口





第26窟

インド最大の涅槃仏





第26窟

仏陀を誘惑する魔王の娘すら悲しげであった。岩から出現したが、未だ岩から自由になれぬ我が身を思い。



第26窟
降魔成道の浮彫





翌日5月4日晴れ

早朝、ホテルを出発しエローラへ。
途中、壺屋を見た。

炎天に壺屋が積んだ壺・亞細亞

デカン
高原を
エローラへ


途中見たダウラターバードの城砦都市
1187年

午前8時49分

エローラ石窟

午前8時49分

第1〜5窟
を望む。

*第1〜12窟までは大乗仏教窟。
7〜8世紀。アジャンタの続き。

第10窟

エローラ唯一のチャイティア窟(祈りの御堂)


*転法輪印の釈迦

第12窟

3層のヴィハーラ(僧の住まい)

第12窟

3層のヴィハーラ(僧の住まい)

同じ年の8月に、姫路の書写山圓教寺の食堂(修行僧の寝食のための建物)を見たとき、この第12窟を思ったのである。(写真)


天台宗書写山圓教寺の食堂

*承安4(1174)年創建

書写山圓教寺の食堂の内部

第12窟の内部

第12窟の壁に彫られた釈迦如来坐像

*転法輪印

第12窟の壁に彫られた釈迦如来坐像

*手の形(印相)はよくわからない。

第16窟
エローラのハイライト
カイラーサナータ寺院(ヒンドゥー教)
*8世紀の中頃から、100年かけて岩を掘り抜いた。

スタンバ

ナンディー堂の両脇に立つ方形の石柱(高さ17m)

*寺院の大きさを分かっていただけると思う。


カイラーサナータ寺院はヒンドゥー教の神シヴァ神を祀る寺院。シヴァの象徴リンガ(男根)が本殿に安置されている。




リンガ(男根)が安置されている部屋(本殿)の後ろに回ると、そこには素晴らしい彫像が彫り出されていた。中央上は飛天、
下の神々はすべてシヴァ神だと思われる。







三曲法によって彫られたシヴァ神


*何気に悲しげに見える。

飛天は岩から彫り出されたものであるが、未だ岩の一部である。

回廊

岩に半ば以上埋もれたままの神々の悲しげな表情。

シヴァの住むカイラーサナータ山を揺るがす多手の魔神ラーヴァナ

魔神ラーヴァナ

もう一歩で岩から自由になれるのになれない悲哀の表情を現わしているかのようだ。

法隆寺釈迦三尊像

岩から自由になった彫像の安らかで威厳のある表情を見よ。
半肉彫りの像の衣文を見ていると、かつて石窟の岩に彫られていたころの仏像の姿が見えてくるようである。

*釈迦三尊像の源流、先の北魏の石窟の仏像を思い出してほしい


永遠の
インドは今日も
振り向かず

久仁裕



終り




*ジャイナ教の石窟は省きました。




安南紀行「「


 2011年4月27日〜5月1日まで、林芙美子の『浮雲』(初版1951年、六興出版))の跡を、中部ベトナムに訪ね、その足で、北部まで旅した。
 「安南紀行」と題したのは、『浮雲』では、日本軍占領下の仏印(ベトナム)を安南と呼んでいるからである。
 『浮雲』は、占領下ベトナムの南部の高原の町ダラットで出会ったタイピスト幸田ゆき子と農林省の山林官富岡兼吾の愛の物語である。話は、終戦直後の富岡の赴任先屋久島でのゆき子の死で終わる。
                         
 安南紀行をごらんになり、興味を持たれた方は、新潮文庫に入っているので読まれたい。以下の『浮雲』からの引用は、すべて新潮文庫版からである。
                         
 また、折にふれ、私の俳句と他の文学作品も、写真に添えて紹介したい。
 なお今回も、文学作品と私の旅の季節が合わないことはご了承願いたい。
                         
 参考までに、タイピストとしてダラットに赴任するゆき子の旅程を紹介しよう。
 旅程東京−海防(ハイフォン)−河内(ハノイ)−ビン−ユエ−ツウフン※−サイゴン−ダラット(昭和18年10月半ば過ぎ到着

                        [注※]
 新潮文庫の『浮雲』では「海辺のツウフン駅から、一行はサイゴン行きの汽車へ乗った」とあったので、「ツウフン」は「ツウラン」(現在のダナン)の誤植かと疑った。そこで、初版本および「昭和文学全集19 林芙美子集」(1953年、角川書店)に当たってみたが、いずれも「ツウフン」であった。よって、今のところは「ツウフン」としておく。


 


林芙美子『浮雲』初版本
(1951年、六興出版)

美しい女が向うユエの町
               久仁裕


フエ:『浮雲』では「ユエ」。フランス語風の言い方。漢名は順化(トゥアンホア)。
   
2011年4月27日午後9時
   フエのフバイ空港

紫の花の骸を気に留める
                久仁裕


ホテルからフォン河(『浮雲』では、ユエ河)まで散歩に出発。

   2011年4月28日 午前7時
   フエの街路樹


「日本の兵隊は貧弱であった。・・・安南人や、ときたま通る仏蘭西人の姿の方が、街を背景にしてはぴったりしていた。」(『浮雲』)






「第二日目はユエで泊まった。ここでも、一行はグランド・ホテルに旅装をといた。日本の兵隊がかなり駐屯している。」(『浮雲』)

サイゴン・モリンホテル。『浮雲』の「グランド・ホテル」と思われる。


「ホテルの前に広いユエ河が流れていた。クレマンソウ橋が近い。ゆき子はこんなところまで、日本軍が進駐して来ている事が信じられない気がしていた。」(『浮雲』)

         チャンティエン橋→
『浮雲』の「クレマンソウ橋」と思われる。クレマンソウは第一次世界大戦中のフランスの首相。


チャンティエン橋を、南国の果物を運ぶ女性。

       
ゆらゆらと渡る世間をマンゴ売り
                久仁裕

フォン河(香江)は水のきれいな川だった。
しかし、『浮雲』では雨期である。
「河は黄濁して水量も多く、なまぐさい河風を朝の街へ吹き着けていた」となっている。

チャンティエン橋からフースアン橋を望む。

黒蝶の横滑りして飛ぶ玉座
               久仁裕


阮(グエン)朝(1802〜1945年)の王宮の門(午門)。
フエは越南(ベトナム)の首都であった。

「赤煉瓦の王城のあたりでは、若い安南の女学生が、だんだらの靴下をはいて、フットボールをしているのなぞ、ゆき子には珍しい眺めだった。」(『浮雲)』

王宮の花屑匂う女学生
               久仁裕


4月28日、フエからホイアンまで、国道1号線を南下する。

沢木耕太郎は北上した。(『1号線を北上せよ』)




沢木耕太郎は『1号線を北上せよ』では、1号線の難所、ハイヴァン峠を越えた。「恐かったのは、その峠からの下り道だった。」

私は、2005年に開通した6.3kmのトンネルを抜けた。バイクは走れない。すべてトラックに積まれて抜ける。


ダナン(昔はツウランと言われ、『浮雲』でもそう呼ばれている)


遠くにダナンを望む。
古くから国際貿易港として栄えた。
中部最大の都市。

4月29日、田圃の中の日本人・谷弥次郎兵衛の墓を通過。

「ねえ、あなた、覚えている? ツウランのそばの何とかって、日本人の墓地にお参りした事もあったでしょ?」・・・
「あの町、何て云ったかしら・・・」
「ヘイホ」って町かい?」(『浮雲』)

ホイアンへ行く途中でチャンパ王国の聖域ミーソン遺跡に立ち寄る。
アンコール遺跡と同じインド化された世界だ。


ヒンズー教のシヴァ神を祀る祠堂9世紀ごろ
            

 サンスクリット
        
  の碑文   
シヴァ神の象徴リンガ(男根)とヨニ(女性器)           
 

ホイアンの福木の街路樹と家並。ホイアンは『浮雲』では「ヘイホ」。ヨーロッパ人がファイフォと呼んだ古い港町。
「並木はフクギって樹だったでしょう? こんもりした老樹で、自動車をとめて休んでいると、子供達が、トンボ・ヤポネーゼってよって来たわね。」(『浮雲』)

「ヘイホっていい町だったわ、道が狭くて、やっと自動車が一台通れる幅だったわね。マッチ箱を二つずつ重ねたような白壁塗りの家並みがつづいて、ほら、日本橋って、屋根のある小さな橋があったわ。」(『浮雲』)


突き当りに見えるのが、1593年、この地の日本人によって架けられた来遠橋(「日本橋」と呼ばれている

「・・・ほら、日本橋って、屋根のある小さな橋があったわ。あすこで写真を加野さんが撮ったけど、あの写真も持って帰れなかったし、でも、あの時の私達ってぜいたくね。」(『浮雲』

『浮雲』の追跡はここで終わる。
幸田ゆき子は、終戦後、海防(ハ

イフォン)の収容所から敦賀の収容所に移り、東京へ出、富岡と再会することになる。舞台は日本だ。

         ホイアンの市場→  肉桂やコブラ酒も売っていた。


コブラ酒のコブラと言えば死んでいた               久仁裕


ダナン空港。ハノイ便を待つ。



ゆっくりと夕焼が来る囁囁記
                久仁裕


人々の口元照らすハノイの灯
                久仁裕




ハノイ。午後9時。

「カフェ・デン(ブラックコーヒー)が飲みたくなりました。湖は薄墨で描かれたように淡く霞んでいました。(辺見庸「葬列」『ハノイ挽歌』)


ホアンキエム湖(ハノイ)
4月30日 午前7時32分

ハノイ市内を走るバス。『1号線を北上せよ』には、8年前のベトナムのバスのすさまじさが詳しく書かれている。
今も基本的にはあまり変わらないようだ。

漆黒の手帳に挟む首都の風
                久仁裕


       ハロン湾



南国の紅旗久しく星一つ
                久仁裕


       



  さりげなく
  ビール飲み干す
  ハロン湾
                久仁裕

       




ハロン湾は降龍(ハロン)の湾。
藍碧の海から龍が躍り出るかのようだ。
                

                    



ハノイで見た水上人形劇




−終わり−




誓子・蛇笏の「満洲・朝鮮」旅行
「「

 私は、山口誓子と飯田蛇笏の「満洲・朝鮮」旅行の跡を訪ねて2007年5月末にソウル、2008年7月末に中国東北地方(満洲)を旅した。誓子と蛇笏が旅した季節と合わない点はご容赦願いたい。
 私の句は『玉門関』(ふらんす堂、2010)から引いた。
 誓子……1934(昭和9)年11月7日〜12月2日
 目的
 @ 満洲で住友が事業を始めるにあたり現地の労働者の賃金の実態を調査すること
(住友本社の社員としての出張)。
 A 満洲を俳句で詠み切ること。「満鉄幹部の三溝又三(俳号沙美)が誓子にほしいままに俳句を作らそうという配慮」(栗田靖『山口誓子』)が裏にあった。
 旅程:神戸〜大連(金州(南山)−旅順)−奉天(瀋陽)−鞍山製鉄所−撫順炭鉱−奉天−(奉天13:52発、新京17:30着のあじあ号にて)−新京(長春)−ハルビン−(飛行機)−奉天−朝鮮縦貫〜神戸 
 成果:句集『黄旗』(昭和10年2月)
 蛇笏……1940(昭和15)年4月3日〜5月4日
 目的:「雲母」の主催として、朝鮮・満洲・中国の雲母支社もしくは雲母の影響力のある俳句会に赴き、主宰自らが指導をすること。
 旅程:下関〜釜山−京城(ソウル)−撫順−奉天−(奉天13:50発、21:30着のあじあ号にて)−ハルビン−新京−奉天−錦州−北京−天津−大連(旅順)〜神戸?
 成果:句集『白嶽』(昭和18年2月)

 蛇笏は、朝鮮の自然は「余りに人心に狎れ過ぎた感じである」が、そのような自然の中で、「兀として蒼天を衝く白嶽などの存在は、極めて比類稀なものである」という。
 春北風白嶽の陽を吹きゆがむ
                  蛇笏
ソウル(旧・京城)の景福宮より白嶽(北岳)を望む

    昌慶苑
 鵲は樹に園啓蟄の光あり
                 蛇笏
 
 鵲(カチ)は、朝鮮ガラスともいわれる。私が昌慶苑(昌慶宮)の隣の昌徳宮をを訪れたときも、カチはたくさんいた。(写真) 拡げられた羽は透通り、美しい。  昌徳宮



日時計の影が異質な物を指す
               久仁裕


          昌徳宮の日時計  


  博文寺に詣でゝ
道中の香煙に会ふ春彼岸
                 蛇笏
 博文寺は、伊藤博文を祀った京城の寺。
現在はソウルシーラ(新羅)ホテル  

 昭和9年11月7日、船で神戸を発ち、11月10日、大連に着いた誓子は、ここから大連に上陸したのであった。

大連港船客待合所(昔の面影を濃厚に残している)

 
 淋しい夏路面電車の乗り心地
                久仁裕



  レトロな市電が走る大連の街

 外套や二百三米突の丘の上に
                 誓子
 爾霊山昼月繊く吹き消えず
                 蛇笏
 青空は空虚の極み爾霊山
               久仁裕

*爾霊山:にれいざん。203の音を借りて乃木大将が「爾霊山」 と名付けた。


爾霊山頂にある203高地を巡る戦死者の慰霊碑(題字は乃木大将)

たゞ見る起き伏し枯野の起き伏し
                  誓子
 誓子は、季語「枯野」で満洲を俳句的世界に包摂しようとした。
 
     
     爾霊山から旅順港を望む

露軍こゝに凍てぬ港を見し堡塁
加農砲天地凍れる夜を昼を
                 誓子



203高地に残るロシアの150ミ
リカノン砲

乃木少尉落葉松枯れし地にますかや               誓子
揚羽飛ぶ乃木保典は死んだまま
                久仁裕               

203高地に残る乃木保典少尉の戦死の碑

   星ヶ浦ホテル
 芝枯れて瑠璃照壁のごと海は
                  誓子
 星ヶ浦(現・星海湾海水浴場)は大連市民の海水浴場として賑わった。   


                  黄海

 霾の陽に祈祷の鐘のきこゆなり
                 蛇笏

 霾(ばい)は、黄塵万丈と形容される黄砂。蛇笏はうしろめたく思いつつ「いちどくらゐは霾に接してみたいと思っていゐた」というのである。
新京(現・長春)偽満洲国軍事部旧址(興亜式建築様式

  
 長春に思うことあり蓮の花
                久仁裕



      
    
          長春の南湖公園

 西方に垂天遠き枯野見き
                 誓子
 春耕の鞭に月舞ひ風吹けり
                 蛇



誓子・蛇笏は共に特急あじあ号の旅を楽しんだ。

 冴え返るキタイスカヤの甃
                 蛇笏

 甃は「いしだたみ」。蛇笏は、昭和15年4月13日、佐々木有風の案内でロシア人が造った街、キタイスカヤ(現・中央大街)を訪れた。

   ハルビン(哈爾濱)中央大街

 

氷る河見ればいよいよしづかなり
                 誓子
流氷に真昼翳さす旅愁あり
                 蛇笏


キタイスカヤの行きどまりは、松花江(スンガリ) の流れ

 ストーヴや処女の腰に大き掌
                  誓子
 歓楽の春の玉沓をすべらする
                  蛇笏


         

            夜の中央大街

 
中央大街愁いに沈む珈琲啜り

                久仁裕



中央大街の喫茶「露西亜」でモカを飲み、しばし休息。

北陵の春料峭と鳶の声
                 蛇笏



瀋陽(旧・奉天)にある清朝の初代皇帝ホンタイジ(愛新覚羅皇太極)の昭陵(北陵
) 

枯原に畜類を白き石としぬ
                 誓子
石獣のほとりの草の萌えそむる
                 蛇笏

瀋陽(奉天)
昭陵(北陵)を守る石獣。たくさんある。

枯野来て帝王の階をわが登る
                 誓子
  
昭陵(北陵)隆恩殿。私が訪れたときは、皇帝の登った中央の階段は柵で閉ざされていた。 

陵寒く日月空に照らしあふ
                  誓子
巣にひそむ春さきがけの鵲を見ぬ
                  蛇笏


昭陵(北陵)の一番奥の方城。方城の後ろに墳丘がある。 
      
ひろ


 禹歩の道たどり着けない瀋陽站
                久仁裕

禹歩(うほ):中国の故事による。千鳥足で歩くこと。
瀋陽站(しんようたん):旧奉天站(駅)
      −終わり−     


   Copyright K.Buma,2011