大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

「おぼわる」の音韻

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私:この一週間ほどだが、飛騨方言の五段動詞「おぼわる」について成立の仕組みをあれこれ議論してきた。「おぼわる」は「覚える事ができる」という可能の意味で、中部地方のみの代表的言い回しと言ってもよい最重要品詞だ。だから、飛騨出身の僕が成立の仕組みを考えなくて誰がこの問題に向き合うというのか、などという気負いがあった訳ではない。何故だろう、考えるのが楽しいから考え続けただけの事。
1.飛騨方言動詞の可能表現
2.「おぼわる」のパウル説
3.「おぼわる」・ソシュール学的立場
君:ほほほ、そして最終結論のようなものにたどり着いたのね。
私:ああ、たどり着いた。僕はこれを文法の問題、つまりは動詞の活用の問題、というように拘り、最終的に四段動詞「おもふ」未然形+可能の助動詞「る」である事には気づいたものの、実はそれでは部分正解だったようだ。
君:このコーナーに私を引きずり込んだのは、つまりは音韻対応の現象である、と言いたいのね。
私:その通り。
君:具体例で示したほうがいいわよ。
私:はいはい。これ以上の判り易い具体例は無いだろうという事で、共通語の「まみむめも」が飛騨方言では「ばびぶべぼ」になっちゃうんだよ。
君:上代においては、そもそもが四段動詞「おもふ」は、飛弾地方においては幻の音韻の仮想四段動詞「おぼふ」であったのだろう、という推論ね。下二「おぼゆ」ではない、という辺りは部分点のハイライトなのよね。
私:その通り。
君:時代はいつから?
私:奈良時代だね。間違いない。当時から平安にかけて数世紀も、飛騨工、その数、延べ数万人が各村々から大工の出張で都と飛騨をせっせと行き来していたが、飛騨工の話す言葉は聞き取りにくいと東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゅもんこう)に記載がある。今回の結論の根拠はこれ。
君:「聞き取りにくい」という事は「飛騨方言は奈良の都の言葉と文法的にはあっていたが、音韻的には異なっていた」のでは、と考えたのよね。
私:その通り。
君:ほほほ、あなたの議論にはもう一点の仮説があるわ。
私:えっ?
君:そしてその音韻対応が一千年以上、変わらずに脈々と飛騨方言に残ってきたのでは、という仮説よ。
私:なるほどそうか。その点なら心配なく。音韻というものは一千年位はびくともしない。変化しないんだ。アクセント学の権威、琵琶・平曲の名手でもある国語学者・故金田一春彦氏の研究書・平曲考がその根拠だ。
君:それじゃあ仮定が全てクリア出来たという事で、早速、結論とやらをお示ししてね。
私:はいはい。
いねむり居眠り・いねぶり
あせも汗疹・あせぼ
あゆむ歩・あゆぶ
かたむく傾・かたぶく
くるみ胡桃・くるび
けむり煙・けぶり
さみしい寂・さびしい
さむい寒・さぶい
すさむ荒・すさぶ
せまい狭・せばい
つめたい冷・つべたい
ともす灯す・とぼす
ねむる眠・ねぶる
ひも紐・ひぼ
ざっとこんなところかな。必死になって思い浮かべたんだよ。
私:なるほど、よくこれだけ思いついたわね。一部、死語のような言葉もあるけど、逆に言えば大半が現役の飛騨方言語彙だわね。音韻学的なアプローチで大正解だわよ。四段動詞未然形+「る」であったのみならず、中央と飛騨方言との間には上代から清音・マ行と濁音・バ行との音韻対応があったのよね。
君:マ行とバ行は共に閉鎖音なので、口唇内において音韻のスイッチングが起きやすいという医学的な見方もできる。
私:あら、音韻のスイッチングって病気なの?医学的な見方というのは言いすぎよ。
私:失礼しました。生理学的な、というのが正解だね。病気の学問が病理学で、健康な人間の体の仕組みを考えるのが生理学だ。飛騨方言も中央語も病気ではない。
君:ほほほ、満点だわ。
私:いねぶりしていたら/あせぼになって/あゆぶ先の廊下が/かたぶいていて/くるびをやいた/けぶりで/さびしょうて/さぶい家が/すさぶし/せばい家は/つべたいもんで/火をとぼして/ねぶる時につかう/寝巻のひぼ。・・・なんて例文はどうかな。これって何だか不眠症を病んでおいでの患者様のような文例になってしまったが。
君:ほほほ、覚えられないわ。長すぎて。
私:それを言うなら「長すぎておぼわらん」って言って欲しいな。
君:よして。御冗談よね。私が皆様の前で飛騨方言なんか話すわけないわよ。
私:あがきみ/の/ことのは/ていたし・・われ/あいだち/なき/こと/いづくんぞ/うべなは/ざらむや。・・ゴメンね。
清少納言の君:枕草子〔百十九〕はづかしきもの、をとこの心のうち。・・紳士だとお思いなら女を困らせない事よ。

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